ミシェル・フーコー

出典: Jinkawiki

(版間での差分)
2010年2月2日 (火) 01:33の版
Daijiten2009 (ノート | 投稿記録)

← 前の差分へ
2010年2月2日 (火) 02:00の版
Daijiten2009 (ノート | 投稿記録)

次の差分へ →
145 行 145 行
'''フーコーのフィクション''' '''フーコーのフィクション'''
-フーコーにとって、人間の活動は、基本的に歴史的・局在的な営みである。それは、一定の歴史的・地理的な場所+ 
 +フーコーにとって、人間の活動は、基本的に歴史的・局在的な営みである。それは、一定の歴史的・地理的な場所、意味世界を基本的な存立条件として、成り立つものである。そして、フーコーが試みたことは、この歴史的・局在的な活動が創りだす「規則性」(全体的な趨勢)を描き出すことである。
 + 
 +フーコーにおいては、論述に妥当性、喚起力を求めることは、「自分の記述は真理である」と宣言することではない。真理の言説、記述の真理性を支えているものは、記述の主体が、記述の対象から完全に区別され、それに対し、認識論的な優位に立っていることである。言い換えるなら、対象から独立し真理性を語りうる人間は、絶対的理性を体現する人間である。しかし、フーコーは、そのような絶対的理性から無縁であり、自分が書くものがフィクションであることを恐れていない。実際にフーコーは、「私の本は、純粋に単なるフィクションである」といい、「私は、ある種の歴史的フィクションを書いている。ある意味で、私は、自分の言っていることが真実ではない、とよく知っている」と公言している。
 + 
 + 
 +'''フーコーの言語(活動)論へ'''
 + 
 + 
 +フーコーのいう「フィクション」とは、一体どのような言説なのか。人々を納得させながらも、真理の言説であることを拒否する言説とは、一体どのような思考なのか。この問いに答えるためには、フーコーにとって、言説(言語を用いる営み)とは何であるのか、という問いに正面から取り組まなければならない。言い換えるなら、フーコーの研究(歴史的存在論)のスタンスを厳密に把握するためには、フーコーの「言語活動」論を確認しなければならない。
 + 
 + 
 +== 教育を支える関係性 ==
 + 
 +'''自律性と関係性'''
 + 
 + 
 +フーコーが主体という自己との関係を相対化しようとしたわけは、それが他者との肯定的な関係性を阻害してきたからである。カント、ヘルバルト、ヘーゲル以降の主体概念は、自律性を理想としている。彼らに先行したハチソン、シャフツベリー、ロックの個人概念も、同じく自律性を理想としている。彼らの主体・個人概念が定めている主体/客体の図式の中では、他者は必ず客体に縮減されてしまう。他者は、モノとして、分析され、意味づけられ、位置づけられ、そうされることで、操作され、活用され、排除される。フーコーが規律化という概念で語ろうとしたことは、簡単に言えば、人(子ども)を操作・活用・排除の対象にする「規則性」である。
 + 
 +しかし、主体・個人の自律性は、他者との深い関係性と矛盾するのではない。フーコーも明示的に語っていないが、ヒトの自律性は、その人の他者との関係性によって支えられている。自分を制御することは、なによりも「自己制御することに意味がある」と信じていることである。この素朴な自律肯定の心情を生み出しているのは、自分を世界に調和させようという意志である。そして、この世界調和への意志を生み出しているのは、世界への肯定感情である。論理による肯定ではなく、心情による肯定である。この世界の存在そのものを受け入れ、尊び、歓んでいることである。それは、ボルノーが「存在信頼」と呼んだものであり、この世界への肯定感情を生み出しているものが、他者との関係性である。
 + 
 +他者との肯定的関係が世界を肯定するという感情を生み出すのは、元々、人にとっての世界が自分を気遣う他者で構成されているからである。乳幼児を考えてみよう。親から愛され慈しまれている乳幼児は、親と自分との一体性を生きている。それは、力としての親ともう一つの力としての子どもが、相互に浸透しあっている状態である。生長するにつれて、その一体性の中から〈私〉が分け出るとき、すなわちささやかな自己が生まれるとき、親は〈私〉を取り巻く世界、大きな力として現れる。この〈私〉の世界としての親は、〈私〉を支え気遣う存在それ自体である。このときの、最初の他者である親が、子どもにとって心情的に肯定されている世界である。ようするに、人が生まれ育つ最初期の他者との肯定的関係性が、自分を肯定する感情の原型を形成し、この原型が、あらたな他者との肯定的関係性を繰り返し経験する中で、自明性として確立されていくのである。
 + 
 + 
 +'''教育と関係性'''
 + 
 + 
 +他者との関係性は、主体性だけでなく、常に成果・実利を求める有用指向にも馴染まない。
 + 

2010年2月2日 (火) 02:00の版

ミシェル・フーコー(1926-1984)はフランスの哲学者である。ここでは、教育学の分野を取り上げていきたいと考える。フーコーの思想史研究のなかで、教育学が最も注目してきたものは、『監視と処罰』で展開された規律化論である。ボールの『フーコーと教育』、マーシャルの『ミシェル・フーコー』など、英語圏で出版されたフーコーと教育に関する著作は、必ず規律歌論に注目し、自律性対規律化、抵抗対支配という対立図式をもとに、フーコーの思想を理解し、規律化、支配の教育を否定し、自律化、抵抗の教育を提唱している。

フーコーを踏まえて近代教育を批判することは、近代教育の営みを全否定することではない。近代教育の主な営みは、主体化であり、個人利益のためであれ、国家利益のためであれ、有用化である。つまり、自己管理能力の育成であり、問題解決能力の育成である。しかし、ある教育学者が述べているように、「[教育学者の意図に関わらず]能力開発によるより良い状態の達成という考え方は、不可避的に改革や刷新を求める人々の夢を打ち壊すだろう。この考え方が、人間は自他を気遣う存在であることを無視し、人間を自分の性能を更新するために技能知識を装着してゆくものとみなすからである」。言い換えるなら、生きることを主体的・有用的な能力に還元することは、より良い状態を能力者に取ってのよりよい状態に限定し、生の台座を看過することである。生という台座が無ければ、能力などあり得ないにもかかわらず。つまり、主体性・有用性への批判は、能力と性の関係の編み直しのために行なわれる。


目次

略歴

1926年

フランス中西部の古い町で、多くの教会が点在するポアチエに、高名な外科医の息子として生まれる。

1946年

フランスで最も権威のある高等教育機関(大学教員・研究者を養成する大学)であるエコール・ノルマル・スペリウール(高等師範学校)に一浪して入学。

1950年  

大学の教員になるためには避けて通れないアグレカシオン(哲学教授[=大学教員]資格試験)の準備をしているときに、アルチュセール(Althusser,Louis 1918-90)と知り合い、彼の思想に共鳴し、共産党に入党するが、しばらくして脱党。その年、アグレカシオンの筆記試験に合格するが、口述試験に失敗して一浪、翌年に合格する。24歳。

1953年

リール大学の心理学助手に就任。27歳。

1954年

最初の著作である『精神疾患と人格』(のちに『精神疾患と心理学』に改題)を出版。

1960年

クレルモン・フェラン大学の心理学講師に就任。34歳。

1961年

ヘーゲル研究者のイポリット(Hyppolite,Jean 1907-68)、科学思想史研究者のカンギレム(Canguilhem,Georges 1904-95)を指導教授として『古典主義時代における狂気の歴史』を書き、文学博士号(国家博士)を取得。35歳。同博士論文は、どういうわけか、有名な学術出版社であるガリマール社から出版を拒否される。しかし、たまたまアリエス(Aries,Philippe)がその原稿を読み、彼の推薦によってプロン社から出版されることになる。

1963年

『レーモン・ルーセル』、『臨床医学の誕生』を出版。37歳。

1966年

『言葉と物』を出版。「プチパンのように売れた」といわれている。40歳。

1968年

パリ第一〇大学(ナンテール校)の心理学教授に就任するが、なぜか二週間でそこを辞職し、すぐにパリ第八大学(ヴァンセンヌ校)の哲学正教授に就任。42歳。

1969年

思想史研究・哲学的歴史の方法論である『知の考古学』を出版。43歳。

1970年

コレージュ・ド・フランスの「思考システムの歴史」講座の教授に就任。44歳。その教授就任講演は、1971年に『言語の秩序』(邦題『言語表現の秩序』)として出版され、「言説」を特異な用語として確立していく契機となる。

1973年

『これはパイプではない』を出版。47歳。

1975年

『監視と処罰』(邦題『監獄の誕生』)を出版。49歳。

1976年

『性愛の歴史Ⅰ------知への意志』(邦訳『性の歴史Ⅰ』)を出版。50歳。この頃から毎年秋にアメリカ西海岸の大学(とくにカリフォルニア大学バークレー校)を訪れ、英語で講義を行なう。

1984年

『性愛の歴史Ⅱ------歓喜の活用』(『性の歴史Ⅱ』)、『性愛の歴史Ⅲ------自己への配慮』(『性の歴史Ⅲ』)を出版。同年の6月25日、10月に出版しようと考えていた『性愛の歴史Ⅳ------肉慾の告白』を校正している途中でパリの病院で死亡。58歳。

1994年

没後10年を記念して、『フーコー------語ったことと書いたもの 一九五四~一九八八年』(Dits et ecrits, 1954-1988 邦題『フーコー思考集成』)が、全四巻で出版される。

1997年

『コレージュ・ド・フランスの講義』(Cours au College de France 邦題『フーコー講義集成』)が、全十三巻の予定で刊行され始める。

教育思想のフーコー

フーコーは、教育学の世界では、規律化を論難するばかりで、何の代替案を示さなかった、と評価されることもあるが、それは適切なとらえ方ではない。規律化論は、フーコーの思想の一部にすぎないからである。彼の思想の本態は、自由、自己との関係、他者との関係-------この三つの関係を明らかにすることである。フーコーにとって、真に自由であることは、そうであるだけで、他者と心情的な関係を結び、自己創出を呼び起こす自己との倫理的な関係を創りだすことである。一言でいえば、倫理的に自由な生によりそう思考をつづけること、それがフーコーの思想の本態である。そして、教育思想として語られるべきことも、自己利益を増やすための教育の方法ではなく、倫理的に生によりそう教育である。

時代状況を考えてみるなら、1990年代後半から、教育は、ヨーロッパで、大きな注目を集めるようになった。日本では、教育は個人の問題を解決する方策として位置づけられがちであり、競争指向、損得勘定、リスク管理にもとづく教育方法論に傾きがちであるが、ヨーロッパでは、教育は社会問題の解決策として位置づけられ、そのための方法・内容に大きな関心が集まっている。交通事故、環境破壊、成果主義、市民性欠如、少年犯罪などの社会問題を、教育によって解決しようというのである。こうした動勢は、現在、ドイツ語で「ペダゴギジールンク」(Paedagogisierung)、英語で「エデュケーショナライゼーション」(educationalization)と呼ばれている。

こうした「教育化」の営みは、教育学・心理学・社会学・脳科学などの最新の知見を活用し、いささか過剰な感情操作を伴う場合もあるが、その中心は、アメリカの「進歩主義教育思想」(社会的再構築論)やヨーロッパの「改革教育学」につらなる変革志向の思考である。すなわち、基本的に子どもたちを自律的個人に形成し、様々な社会問題に主体的に取り組ませることであり、そうすることで、子どもたち自身を既存の社会環境の脅威から護り、また未来世界をよりよいものへと変えようとする、真摯な営みである。こうした「教育化」の営みは「教育のエンフォースメント」と呼べるだろう。

ともあれ、こうした「教育化」が留意すべきことは、個人問題の解決策であれ、社会問題の解決策であれ、方法中心の教育論は、肝心の教育の根幹を看過しがちであるということである。教育の根幹は、人がよりよく生きられるように支援することである。フーコーが今もなお、私たちにとって刺激的であるのは、彼の議論が、単に問題解決に寄与する思考ではなく、人がよりよく生きることに寄り添う思考だからである。もちろん、人々を悩ます問題は解決されるべきであるが、その解決法は、どのように生きるのかによって、かなり変わってくるはずである。「このように生きるべきである」と命じるのではなく、「生きるとはどういうことか」と問い続けるとき、そこに歓喜としての教育の作法が浮かび上がり、人を真に自由にする関係性が描き出されることだろう。それは、社会を変える力であり、唯一の回答は無いが、自己への、他者への、そして世界への真摯な応答である。

フーコーの主体論:真理と唯名論

「(近代的)主体とは何か」と問うために必要な視界は、唯名論の視界である。それは、普遍的なものは事物ではなく意味であると考えることであり、人間は普遍性としての意味から逃れる生成変化であると考えることである。フーコーの歴史的存在論の根幹は、この唯名論である。唯名論は、諸力の関係と権力の装置との動態、真理への意志と真理の言説との動態によく反映されている。真理の言説に依拠する近代的主体は、諸力の関係を見失い、この動態を弱めていく。そのとき、近代的主体は、近代社会の秩序を再生産する権力の装置となる。このことから当面帰結する課題は、主体形成としての近代教育を、ただ宣揚することではなく、それを諸力の関係と権力の装置との動態、真理への意志と真理の言説との動態を歓喜する営みとして理解し、その背景と限界を確かめることである。



[主体形成として近代教育]


1984年1月20日に、フーコーは、三人の識者から実質的に最後のインタヴューを受けている。そこでフーコーは、西欧人は「なぜ自分よりも真理を気にかけることによってのみ、自分を気にかけるのか」と自問し、それは、西欧人にとっての「根本的な問題であった」と述べている。西欧文化が、こうした「真理へのかかわり」から離れたことは、これまでに一度もなかった、と。

フーコーにとって、(西欧の)人々が真理にかかわること、言い換えるなら、「真理を言葉にすること」(veridictions「誠実であること」も意味する)は、西欧文化がもたらした宿命である。この場合の「真理」は、科学的真理だけでなく、人間的真理でもある。すなわち、「自然とは何か」「生命とは何か」といった問いに対する答えでもあれば、「私たちは何者か」「生きるとはどういうことか」といった問いに対する答えでもある。たとえば、シェークスピアの『ハムレット』に登場する内務大臣ポローニアスの「自分自身に対し、正直であれ!」という言葉も、真理を言葉にすることに等しい。ちなみに、彼はこの言葉どおり生きて、ハムレットに刺し殺された。

こうした「真理へのかかわり」は、西欧史において、神学的な探究、科学的な探究として現れただけでなく、大規模な抗議運動、批判運動としても現れてきた。例えば、16・17世紀のプロテスタンティズムのカトリック批判は、真理へのかかわりの現れである。ルター、カルヴァンなどのプロテスタントは、カトリックの修道院、洗礼聖日、司教職、そして法王に対しても、「魂」ないし「精神」という内在する「神性」を根拠に、激しい非難、攻撃を繰り返した。プロテスタントにとって、そうしたもの全ては、真理を目指す内在的神性と無関係であるにも関わらず、神の権威をかたる涜神的なものであったからである。

プロテスタントのみならず、近代的主体(human subject/sujet)という人間のありようも、この「真理へのかかわり」と無縁ではない。否、無縁ではないどころか、近代的主体は「真理へのかかわり」によって成り立っている、というべきだろう。近代的主体は、基本的に真理にかかわり、真偽・正誤などを審判する〈私〉と、真理に関わらず、真偽・正誤などを審判される〈私〉から成り立ち、真理にかかわり真偽・正誤などを審判する〈私〉によって指導・教導される人間である。この真理にかかわり審判する〈私〉の別名が「精神」「理性」「良心」「道徳性」「主体性」である。


[主体の危うさ]


しかし、主体という概念は、厳しく批判されることもあった。19世紀後期についていえば、ニーチェによる主体概念批判がよく知られている。有名な言葉は、『力への意志』における「『主体』は一つのフィクションにすぎない」というアフォリズムであろう。ニーチェはまた、1887年に、私たちの科学全体は「なお言葉の誘惑にとらわれたままで、『主体』という奇形児を背負っている」と述べている。「[近代人は]まるで強者の背後に強さを現したり、現さなかったりすることが自由にできるような、一種の中立的主体性があるかのように考えている。しかし、そうした主体性は存在しない。行為・作用・生成の背後に『普遍性』といわれるものがあるのではない。『行為の主体』という言葉は、単に想像上のものであり、行為に付け加えられたものに過ぎない------行為が全てなのだ」と。

フーコーの主体批判も、こうしたニーチェなどの主体批判と通じている。ニーチェのように、人間の行動を規定しているものとして意志よりも実践を重視している。つまり、神性としての「魂」は存在しないし、主体性は真の自由を保証するものでもない、と。フーコーにとって、主体は、一方で理性的であり、自己批判を行なうこともできる人間であるが、他方でこの世の趨勢的秩序を追認することにつながり、その意味で、人は最も深い次元に位置する権力の装置でもある。


[フーコーの唯名論]


どうすれば、主体的である「私たち」が主体的であることを批判できるのか。フーコーは、何度か、自分の立場を「唯名論」と呼んでいる。ただ、フーコーは、唯名論は権力は誰かが所有している力ではなく、人を方向付ける様々な実践の総体であると理解するために必要である、とだけ述べている。「[規律化権力を正しく理解するためには]おそらく唯名論者(nominaliste)の立場をとらなければならないだろう。権力は、制度でも、構造でも、ある種の人が持っている力でもない。それは、特定の社会において、錯綜した方略の総体に与えられた名称だからである」と。

いわゆる「唯名論」は、中性の哲学者オッカムの思想に代表されるような言葉と物の関係論であり、普遍性を言葉、概念にのみ認め、もののなかには認めない、という立場である。たとえば、人間性は、全ての実在の人間に内在する実体ではなく、言葉、概念として考えられたものである、と考える。言い換えるなら、唯名論は、どこかに「本質性」「普遍性」があって、それが全ての現象を生み出していると考えるのではなく、いろいろなものが寄せ集まり、そこに一つの構図のようなものが浮かび上がり、それがそこに集まっているものを方向付けると考える。したがって、唯名論者であることは、世界の事象のすべてを統括する「神意」も、全てを貫徹する法則も、全てを審問できる法律も、実質的に棚上げすることである。文脈が醸し出す拘束力、いわば場の空気のようなものが、「普遍性」「本質性」とよばれるものの本態である、と考えることである。

おそらく、フーコーの唯名論も、普遍性、本質性の実在を否定し、すべてのものは一回的・固有的に生成すると考えたことだろう。その場合、唯名論の前提は人間の有限性である。神の「絶対的能力」に比べるなら、人間という有限の能力しか持たないものが、いかに普遍性、本質性を考えてみても、それがどのようなものなのか、精確に把握することはできない。したがって、基本的に、事象は、その都度その都度の一回的、固有的な生成である。なるほど、実証科学の進歩は、様々な事実を明らかにし、様々な法則を証明している。しかし、この世界の始まりも、この世界の歴史的経緯も、私たちは精確に知らない。したがって、私たちは、この世界に起こることを厳密に知ることができない。ましてや、そうした全てを規定する普遍性、本質性など、語りうるはずもない。語りえるのは、常にささやかな現実、ささやかな問題である。

したがって、唯名論においては、人間が人生を賭けて目指すべきものも、語りえないものである。たとえば、キリスト教が語ってきた人間の「完全性」の達成という人生課題は、この世界の中の人間が先取りしたり確定したりできるような、本質的、普遍的な理想像などではない。人間が神性に類比される完全性を確定することは、涜神行為である。完全性は、それが確定されえないテロスであるからこそ、人間によって敢然と目指されるべきものである。言い換えるなら、私たちのよりよいものを敢えて求めるという指向性は、何らかの規範として提示されるものではない。

このようにフーコーの唯名論を理解するなら、権力の関係は、何か普遍的な原則に規定され、人間に一切の批判を許さない関係ではなく、主体も、普遍的なる神言に導かれ、それから一歩も外れられない存在者ではない。権力の関係に「絶対的権力者」のような中心はなく、主体の中にも「人間の自然本性」のような中心はない。権力の関係は批判可能なものであり、主体は脱主体化可能なものである。人間の同一性は、継起する出来事の予測不可能な多数性(分散性)の、ひと時の持続性にとってかわられる。フーコー自身が明言しているわけではないが、こうしたフーコーの唯名論によって、主体として語られている「私たち」も、非主体的になりうると考えることができるはずである。

フーコーの言語論

フーコーにとって言語活動は、主体的・有用的な言語活動であるだけでなく、この主体的・有用的な言語活動の限界に人を連れ戻す脱主体的・非有用的な言語活動、「外の思考」でもある。主体的・有用的な言語活動は、言葉と意味形象を一対一に対応させ、世界・自己を創造し、問題解決としての「実践」に結びついているが、「外の思考」は、言葉と意味形象のあいだにととどまり、世界・自己を異化し、問題化を生み出す「経験」に結びついている。フーコーは、「外の思考」を強調しているが、「外の思考」の存立条件は、主体的・有用的な言語活動である。その意味で、「外の思考」は、「外の思考」によって侵犯されるものに支えられている。しかし、「外の思考」の言語活動を、最も深いところで支えているのは、他者の声にこたえるという態度、他者との無為の関係を取り結ぶことである。それは、言葉を人を結びつけるときにも、言葉を人から話すときにも、必須の言語活動である。



フーコーのフィクション


フーコーにとって、人間の活動は、基本的に歴史的・局在的な営みである。それは、一定の歴史的・地理的な場所、意味世界を基本的な存立条件として、成り立つものである。そして、フーコーが試みたことは、この歴史的・局在的な活動が創りだす「規則性」(全体的な趨勢)を描き出すことである。

フーコーにおいては、論述に妥当性、喚起力を求めることは、「自分の記述は真理である」と宣言することではない。真理の言説、記述の真理性を支えているものは、記述の主体が、記述の対象から完全に区別され、それに対し、認識論的な優位に立っていることである。言い換えるなら、対象から独立し真理性を語りうる人間は、絶対的理性を体現する人間である。しかし、フーコーは、そのような絶対的理性から無縁であり、自分が書くものがフィクションであることを恐れていない。実際にフーコーは、「私の本は、純粋に単なるフィクションである」といい、「私は、ある種の歴史的フィクションを書いている。ある意味で、私は、自分の言っていることが真実ではない、とよく知っている」と公言している。


フーコーの言語(活動)論へ


フーコーのいう「フィクション」とは、一体どのような言説なのか。人々を納得させながらも、真理の言説であることを拒否する言説とは、一体どのような思考なのか。この問いに答えるためには、フーコーにとって、言説(言語を用いる営み)とは何であるのか、という問いに正面から取り組まなければならない。言い換えるなら、フーコーの研究(歴史的存在論)のスタンスを厳密に把握するためには、フーコーの「言語活動」論を確認しなければならない。


教育を支える関係性

自律性と関係性


フーコーが主体という自己との関係を相対化しようとしたわけは、それが他者との肯定的な関係性を阻害してきたからである。カント、ヘルバルト、ヘーゲル以降の主体概念は、自律性を理想としている。彼らに先行したハチソン、シャフツベリー、ロックの個人概念も、同じく自律性を理想としている。彼らの主体・個人概念が定めている主体/客体の図式の中では、他者は必ず客体に縮減されてしまう。他者は、モノとして、分析され、意味づけられ、位置づけられ、そうされることで、操作され、活用され、排除される。フーコーが規律化という概念で語ろうとしたことは、簡単に言えば、人(子ども)を操作・活用・排除の対象にする「規則性」である。

しかし、主体・個人の自律性は、他者との深い関係性と矛盾するのではない。フーコーも明示的に語っていないが、ヒトの自律性は、その人の他者との関係性によって支えられている。自分を制御することは、なによりも「自己制御することに意味がある」と信じていることである。この素朴な自律肯定の心情を生み出しているのは、自分を世界に調和させようという意志である。そして、この世界調和への意志を生み出しているのは、世界への肯定感情である。論理による肯定ではなく、心情による肯定である。この世界の存在そのものを受け入れ、尊び、歓んでいることである。それは、ボルノーが「存在信頼」と呼んだものであり、この世界への肯定感情を生み出しているものが、他者との関係性である。

他者との肯定的関係が世界を肯定するという感情を生み出すのは、元々、人にとっての世界が自分を気遣う他者で構成されているからである。乳幼児を考えてみよう。親から愛され慈しまれている乳幼児は、親と自分との一体性を生きている。それは、力としての親ともう一つの力としての子どもが、相互に浸透しあっている状態である。生長するにつれて、その一体性の中から〈私〉が分け出るとき、すなわちささやかな自己が生まれるとき、親は〈私〉を取り巻く世界、大きな力として現れる。この〈私〉の世界としての親は、〈私〉を支え気遣う存在それ自体である。このときの、最初の他者である親が、子どもにとって心情的に肯定されている世界である。ようするに、人が生まれ育つ最初期の他者との肯定的関係性が、自分を肯定する感情の原型を形成し、この原型が、あらたな他者との肯定的関係性を繰り返し経験する中で、自明性として確立されていくのである。


教育と関係性


他者との関係性は、主体性だけでなく、常に成果・実利を求める有用指向にも馴染まない。


参考文献

ミシェル・フーコー著 慎改康之訳 『ミシェル・フーコー講義集成4 精神医学の権力』 筑摩書房 2006年

田中智志著 『教育思想のフーコー 教育を支える関係性』 勁草書房 2009年


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成