マカレンコ
出典: Jinkawiki
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== 生い立ち == | == 生い立ち == | ||
+ | アントン・セニョーノヴィチ・マカーレンコ(1888~1939) | ||
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+ | ウクライナの労働階級の家庭に生まれる。4年制の小学校を卒業後、1年間の教職課程をうけ、2年制鉄道学校の教師になる。1905年の革命時代に教員運動に積極的に参加し、左遷される。その後ポルタワ師範専門学校に入り1917年に卒業。1920~1928年の間未成年法律違反者のためのゴーリキー労働コローニャを組織、指導。1927~1935年の間は不老時のためのジェルジンスキー労働コムーナを組織、指導。この2つの組織で約3000人を社会主義社会の建設者に育てた。彼は多くの著書を残し、彼の理論を後世に残した。教育史における彼の功績、とくに集団主義と科学的訓育論におけるものは非常に大きい。 | ||
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+ | '''コローニャ''':ハーリコフの近く、ボルタワ郊外に、打ち壊された元少年犯罪者コローニャを利用し、数名の少年と共に開始。教師も子どもも貧しく、飢えや寒さとともに闘わなければならなかった。少年たちの勝手な反社会的行動にマカレンコは人間的怒りをあらわにし、そのことで少年とマカレンコとの間に新しい関係が築かれた。マカレンコは後に、道徳的な説教や怒りよりも、むしろこの興味深い実務的な戦いこそが、よい集団的調子の最初の芽を生み出した、と振り返っている。ここでは、たきぎとりや食料の買出し、魚とり、国有林の管理、国道の警備等々を行っていた。 | ||
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+ | '''コムーナ''':反革命投機取締り非常委員会の勤務員たちが、子どもたちを守る運動の一環として、自分の給料をさいてハーリコフ郊外に新しい施設を建設、管理をマカレンコに委託したもの。コローニャから移ってきた50人の子どものほかに、新たに浮浪児100人を集めた。コムーナでは、木工・鍛冶・旋盤等の職場が組織され、間もなく独立採算制を採用。 | ||
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+ | →コローニャやコムーナでは、学校での勉強と農場あるいは工場での労働を二本柱とていた。他に、コムソモール、ピオネール活動や文化的・技術的サークル活動を中心に、演劇・スポーツ・遊び・遠征旅行等様々な文化的社会的活動や技術の習得が組織されていた。 | ||
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== 集団主義 == | == 集団主義 == | ||
- | マカレンコは教育という場において集団主義を非常に重要視していた。集団とは社会主義の細胞である | + | マカレンコは教育という場において集団主義を非常に重要視していた。集団とは社会主義の細胞であると説き、集団の一員であるから自分の意志のみを尊重するのではなく、集団の一員としてどうすべきかを考えて行動することを第一に考えさせる教育を推進した。彼自身が国民学校の教師をしたり、浮浪児相手の教師をしたり、子どもとの接触を十分にとっており、彼の理論は決して机上の空論で留まるものではなく、彼自身の経験に基くものだろうと考えられる。 |
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ソビエト教育学研究会『マカレンコ研究Ⅰ』明治図書出版 1965/2 | ソビエト教育学研究会『マカレンコ研究Ⅰ』明治図書出版 1965/2 | ||
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ソビエト教育学研究会『マカレンコ研究Ⅱ』明治図書出版 1965/3 | ソビエト教育学研究会『マカレンコ研究Ⅱ』明治図書出版 1965/3 | ||
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マカレンコ著 クマリン編 海老原遥・橋迫和幸訳『集団主義と個人の教育』新読書社 1983/10/15 | マカレンコ著 クマリン編 海老原遥・橋迫和幸訳『集団主義と個人の教育』新読書社 1983/10/15 | ||
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+ | 梅根 悟監修 世界教育史研究会編『世界教育史大系16 ロシア・ソビエト教育史Ⅱ』講談社 1978年4月2日 第2刷 | ||
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+ | written by oimo |
最新版
マカレンコ
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生い立ち
アントン・セニョーノヴィチ・マカーレンコ(1888~1939)
ウクライナの労働階級の家庭に生まれる。4年制の小学校を卒業後、1年間の教職課程をうけ、2年制鉄道学校の教師になる。1905年の革命時代に教員運動に積極的に参加し、左遷される。その後ポルタワ師範専門学校に入り1917年に卒業。1920~1928年の間未成年法律違反者のためのゴーリキー労働コローニャを組織、指導。1927~1935年の間は不老時のためのジェルジンスキー労働コムーナを組織、指導。この2つの組織で約3000人を社会主義社会の建設者に育てた。彼は多くの著書を残し、彼の理論を後世に残した。教育史における彼の功績、とくに集団主義と科学的訓育論におけるものは非常に大きい。
コローニャとコムーナ
コローニャ:ハーリコフの近く、ボルタワ郊外に、打ち壊された元少年犯罪者コローニャを利用し、数名の少年と共に開始。教師も子どもも貧しく、飢えや寒さとともに闘わなければならなかった。少年たちの勝手な反社会的行動にマカレンコは人間的怒りをあらわにし、そのことで少年とマカレンコとの間に新しい関係が築かれた。マカレンコは後に、道徳的な説教や怒りよりも、むしろこの興味深い実務的な戦いこそが、よい集団的調子の最初の芽を生み出した、と振り返っている。ここでは、たきぎとりや食料の買出し、魚とり、国有林の管理、国道の警備等々を行っていた。
コムーナ:反革命投機取締り非常委員会の勤務員たちが、子どもたちを守る運動の一環として、自分の給料をさいてハーリコフ郊外に新しい施設を建設、管理をマカレンコに委託したもの。コローニャから移ってきた50人の子どものほかに、新たに浮浪児100人を集めた。コムーナでは、木工・鍛冶・旋盤等の職場が組織され、間もなく独立採算制を採用。
→コローニャやコムーナでは、学校での勉強と農場あるいは工場での労働を二本柱とていた。他に、コムソモール、ピオネール活動や文化的・技術的サークル活動を中心に、演劇・スポーツ・遊び・遠征旅行等様々な文化的社会的活動や技術の習得が組織されていた。
集団主義
マカレンコは教育という場において集団主義を非常に重要視していた。集団とは社会主義の細胞であると説き、集団の一員であるから自分の意志のみを尊重するのではなく、集団の一員としてどうすべきかを考えて行動することを第一に考えさせる教育を推進した。彼自身が国民学校の教師をしたり、浮浪児相手の教師をしたり、子どもとの接触を十分にとっており、彼の理論は決して机上の空論で留まるものではなく、彼自身の経験に基くものだろうと考えられる。
引用・参考文献
ソビエト教育学研究会『マカレンコ研究Ⅰ』明治図書出版 1965/2
ソビエト教育学研究会『マカレンコ研究Ⅱ』明治図書出版 1965/3
マカレンコ著 クマリン編 海老原遥・橋迫和幸訳『集団主義と個人の教育』新読書社 1983/10/15
梅根 悟監修 世界教育史研究会編『世界教育史大系16 ロシア・ソビエト教育史Ⅱ』講談社 1978年4月2日 第2刷
written by oimo