万葉集
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この成立をめぐる諸説にも関係するが、『万葉集』はなぜ天平宝字2年(758)正月元旦の歌で巻を閉じられているのか。家持が歌わぬ人となったのか、雄略天皇の春の歌からはじまったから新春で終わらせる必要があったのか、それ以前の事情か。諸税紛々として、いまだ謎のままである。 | この成立をめぐる諸説にも関係するが、『万葉集』はなぜ天平宝字2年(758)正月元旦の歌で巻を閉じられているのか。家持が歌わぬ人となったのか、雄略天皇の春の歌からはじまったから新春で終わらせる必要があったのか、それ以前の事情か。諸税紛々として、いまだ謎のままである。 | ||
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+ | 『早わかり古代史』 松尾 光著 日本実業出版社 2002年8月10日発行 |
2010年2月12日 (金) 22:21の版
万葉集
『万葉集』には、天皇から庶民にいたるまでの幅広い階層の歌が収められている。四五一六首というが、長歌の切り方などで二十ほど歌の数を多くみる説が有力である。人の死を悼む挽歌や恋人同士で贈りあった相聞歌と雑歌などに類別される。作品数は大伴家持が四七九首ともっとも多く、柿本人麻呂や山上憶良などがそれに次ぐ。
『万葉集』は家持が編集したというのが通説である。とはいえ一からすべてではなく、たとえば大伴坂上朗女などが集めていた「大伴家歌集」やすでにあった憶良の『類聚歌林』や『高橋連虫麻呂歌集』などを集成し、そこに家持自身の歌日誌を入れたり、兵部大輔のときに集めた防人歌などを加えて整えていったのだろう、という。
ところが問題もある。『古今和歌集』の序によれば9世紀初頭の平城天皇が関与していたかのようである。また『万葉集』の存在は、菅原道真が撰した『新撰万葉集』(893年成立)に先行する歌集として書きとめられるまで、史料的にまったく確認できない。それも書名だけで、巻数が二十巻であったかどうかも明瞭でない。
この成立をめぐる諸説にも関係するが、『万葉集』はなぜ天平宝字2年(758)正月元旦の歌で巻を閉じられているのか。家持が歌わぬ人となったのか、雄略天皇の春の歌からはじまったから新春で終わらせる必要があったのか、それ以前の事情か。諸税紛々として、いまだ謎のままである。
参考文献
『早わかり古代史』 松尾 光著 日本実業出版社 2002年8月10日発行