山南敬助

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2011年1月28日 (金) 11:14の版
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  山南敬助は、天保4年(1833年)に生まれた。色白で、愛敬のある丸顔で、温厚篤実な人物であり、東北人らしく寡黙で、辛抱強い性格の持ち主であったといわれる。 剣歴でいえば、近藤勇や土方歳三以上だったかもしれないと言われる。出身も近藤や土方のように農民出身ではなく、陸奥伊達藩脱藩浪人で千葉周作の北辰一刀流門下で免許皆伝の腕だった。近藤の試衛館に出入りするまで、9年間千葉周作に直接稽古をつけてもらったともいわれ、流派の筋目からいっても、試衛館の多摩グループよりもはるかに上だった。剣の他にも学問もよくできた。  浪士募集に応じて近藤たちとともに落城したのは31歳の時であった。近藤よりも一つ年上で、血気盛んな農村出の若者の多い新撰組では、当初、近藤や土方にも頼られる存在であった。芹沢鴨、近藤勇の両局長の下に副長が置かれた際には、山南は新見錦、土方歳三とともにそのポストについた。 近藤たちが芹沢を暗殺した際にも、山南は原田左之助とともに平山五郎を襲い、その首を落とした。しかし、新撰組の副長としての山南の出動記録はごく少なく、おおかたの隊士が血みどろな血闘を経験した池田屋事件では、屯所で留守を守っていたり、近藤が東下して新たに隊士を募集して組の戦力が70人に膨れ上がった時も、なぜか新編成表ともいえる「行群録」から名前がはずされている。また、沖田や藤堂平助、原田といった武闘派とは違い、自ら血刀をふるうことがあまりなかった。  そして、慶応元年(1865年)に置手紙を残して突然新撰組を脱走した。京都を飛び出した山南は十数キロしか離れていない大津宿でわらじを脱いだ。この当時、勤王思想(江戸末期、佐幕派に対し、天皇親政を実現しようとした思潮)の持ち主だった山南は、過激な佐幕派へと傾斜してゆく、近藤たちとは徐々に距離を置くようになっていた。そして、山南は土方の策謀によって副長から総長へと棚上げされ実質上の権限を奪われてしまっていた。 近藤が壬生の屯所を西本願寺(禁門の変で逃げ込んできた数十人の長州兵を僧侶に変装させて落ち延びさせた擁長州派の寺)に移すという計画を立てたときには山南は、この移転計画に反対し詰め寄ったが、最後は近藤の申し渡しに耳を傾け、静かに小刀を抜き自分の腹を切った。


参考文献:新撰組~動乱の幕末 剣に生き、剣に死す~ 松浦 玲      新撰組全史 木村幸比古      http://bakumatu.727.net/oboe/oboe-dasso.htm


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