原田佐之助
出典: Jinkawiki
2011年1月28日 (金) 11:30の版 Daijiten2009 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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原田左之助は伊予松山藩足軽、原田名長次の息子で、天保11年(1840年)生まれである。江戸藩邸で中間(江戸時代、武士に仕えて雑務に従った者の称)をつとめていた。『史談会速記録』に原田左之助の変わり者ぶりが記されている。 左之助が17、18歳の時に将校の従卒的立場(将校に専属して、身の回りの世話などをする兵卒)にあった時、日ごろの傲慢さや、加えて酒によって帰ってきたことから、罰として、裸にされ縛られたうえ、口には声を立てさせないように、口にかませ、首の後ろで結んでおくものを詰められ、水をかけられたりしていた。他にも、裸でふんどし一枚のうえに、オランダ式の銃隊が使っていた太鼓をドンドン鳴らしながらやってくるのを目撃されている。また、伊予の松山で若党だった頃、「自分の腹を斬る作法も知らぬ下司下郎」と言われたことに憤慨し、いきなり腹を出し、刀を抜くと左から右へ一文字にひいたらしい。原田はその傷を出しながら「俺の腹は金物の味を知っている」と自慢したと言う。そして、罵った武士は驚いて逃げてしまったという話もある。 原田は文久3年(1863年)、京都の壬生村八木源之丞宅で誕生した新撰組近藤派8名のうちの1人であった。芹沢鴨一派暗殺をはじめ、内山彦次郎暗殺事件、池田屋の変、明保野享事件、禁門の変や三条大橋制札事件、油小路事件などほとんどの事件に関与していた。特に、三条大橋制札事件には大きく関わっており、指揮者に命じられ、原田は手勢36人を三条大橋付近3か所に置き、チャンスを待った。3~4日後に土佐藩士が8人現れ制札 を引き抜き河原に投げ捨てた。待ち構えていた隊士達は一斉に襲い掛かり、原田は首領らしい人物を切り捨て、残った藩士たちも手負いを負い逃げていったという。 慶応元年(1865年)には、京都の仏光寺の町人菅原まさと結ばれ、長男茂をもうけた。その後、鳥羽・伏見の戦いに敗れて東下し、甲陽鎮撫隊に参加するがここでも敗れて、近藤と訣別し、永倉の精兵隊に参加する。そして、会津へ向かう途中、江戸へ引き返すが、江戸は官軍でいっぱいで、ここで彰義隊に参加し上野で戦うも負傷し、本所の神保某という旗本邸で行年29で没する。
参考文献:新撰組全史 木村幸比古
新撰組~動乱の幕末 剣に生き、剣に死す~