シルクロード

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シルクロード

荒涼たる地域のへりに沿って、隊商の踏み跡や山越えの道が続き、のろしの塔やオアシス、辺境守備隊の要塞が点在する。13世紀~14世紀には世界の目抜き通りになった。広大なモンゴル帝国の保護のもとで、このルートの交易が盛んになった。 道は一本ではなく、二本あり、三本あり、十字路があり、横道もある。

絹の道

「絹の道」の交易は中継貿易であった。商品は、一民族から他の民族へ、さらに細かく言えば一民族の間でも一民族から他の部族へ、と売り継がれていった。


モンゴル帝国

1250年には、チンギス・ハーンと彼の後継者たちが黄海から黒海にまで及ぶ地域の征服を成し遂げていた。モンゴル帝国の保護のもとでシルクロードは6400㎞の交易路として繁栄し、旅行者や商人はかつてなく安全に行き来することができるようになった。1260年にモンゴル帝国の大ハーンとなったフビライ・ハーンは、その後、1368年まで中国を支配することになる元王朝を創設し、都を大都(現在の北京)に定めた。13世紀になるまでは、ヨーロッパから中国へ旅行するなど、およそ考えられないことだった。しかしいまやわずかだが、シルクロードを利用してはるばるフビライ・ハーンの都まで旅する商人や宣教師たちがいた。1266年に大都に着いたヴェネツィアの商人ニッコロ・ポーロとマッフェオ・ポーロの兄弟は、キリスト教や西洋科学についての知識を求める大ハーンに歓迎されたらしい。5年後、2人はニッコロの息子マルコを伴ってフビライの宮廷に到着した。13世紀には中国のキリスト教徒ラッバン・サウマが大都からエルサレムへ巡礼し、西ヨーロッパを旅行した。いずれの旅行記も、中世アジアのシルクロード沿いの人々の生活の一端を、実に興味深く紹介するものとなっている。

宝物の取引

シルクロードを通って取引された高価な商品は絹織物だけではない。香料、薬、象牙、稀少植物、ヒョウなどの異国趣味の動物、コハクやラピスラズリなどの宝石もあった。西方からは、織物、金、銀などがもたらされた。中国からは隊商が、絹織物、紙、武器、漆器、そして薬用植物のダイオウさえも運んだ。こうした品物は、運ばれながら、中継地のバザールで売られたり他の商品と交換したりした。品物は場所によって、ラクダ、馬、去勢した雄牛、ヤクなどの背に乗せて運ばれた。バクトリアのフタゴブラクダは、中央アジアでは最も頑健な荷物運搬用の動物だった。シルクロードを行き来した大キャラバンの中には、400頭にもなるラクダの隊商も珍しくなかった。

黒死病

1330年代に中国で腺ペストが突然大発生した。そしておそらくシルクロードが主要な伝染経路となり、黒死病が中央アジアからヨーロッパへと広がった。

新しいシルクロード

1998年、30カ国以上の代表が一堂に集まり、ヨーロッパ~コーカサク~アジアをかつてと同じルートで結ぶ現代のシルクロードの建設の可能性をめぐって議論が交わされた。

出典

シルクロードのアラブ人 川崎寅雄著 中外日報社

世界の歴史大図鑑 アダム・ハート=デイヴィス(総監修)樺山紘一(日本語版総監修) 河出書房新社


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