アファーマティブ・アクション4

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2012年1月31日 (火) 13:57の版
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 代表的な特別措置の例として政府の調達契約の一定部分を少数集団や女性が所有する企業に発注したり、少数集団や女性の進出が著しく立ち後れている職種へ優先的に採用、昇格を行ったり、大学入学の際に人種を考慮したりするなどがある。  代表的な特別措置の例として政府の調達契約の一定部分を少数集団や女性が所有する企業に発注したり、少数集団や女性の進出が著しく立ち後れている職種へ優先的に採用、昇格を行ったり、大学入学の際に人種を考慮したりするなどがある。
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==アファーマティブ・アクションをめぐる判決== ==アファーマティブ・アクションをめぐる判決==
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'''バッキー判決''' '''バッキー判決'''
- 1972年にカルフォルニア州立デイヴィス校の医学部に受験したバッキーという少年による事件である。彼は2年連続で同医学部の受験に失敗した。当時大学側は100人の定員のうち16人をマイノリティ枠として設けていたのだが、これが逆に一般人への差別的行動であるとし、大学と争った一連の判決である。これに対し連邦最高裁は、1978年にデイヴィス校の割当優遇制度を違憲とみなした。+ 州立カルフォルニア大学デイヴィス医学校は当時、100人の定員のうち16人を特別枠として設け、マイノリティーの志願者から通常の試験での選抜方法とは異なる方法によって入学を許可するという割当制を行っていた。白人であるアラン・バッキーは1973年と1974年の2回にわたって同大学の医学校に志願した。かれは白人であることから通常の入学試験を受験した。結果的にはその2回とも不合格とされた。だが、バッキーと同じ年に試験を受けたマイノリティーの学生は彼よりも点数が低かったにも関わらず合格となっていた。これを不服と感じたバッキーは州裁判所に訴えたのだった。
 + 第一審ではマイノリティー枠を設けること自体が違憲であるという判決が出た(バッキー本人の入学については許可されなかった)。この事件はカリフォルニア洲最高裁判所に上告される。ここでの判決は、州立カルフォルニア大学デイヴィス医学校の入試制度が憲法の規定する「平等保護条項」に反するとし、違憲となった。ここでバッキーの休学を許可するように判決を下したのである。
 + 結果的に1978年に連邦最高裁判所でも争われ、「この制度は教育において必要不可欠な多様性のある学習環境を確保するために必ずしも必要であるとは言えない」という判決のもと、これもまた憲法の「平等保護条項」に反するとしてデイヴィス校のマイノリティー優遇制度を違憲とみなした。
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==参考文献== ==参考文献==

2012年1月31日 (火) 14:21の版

概要

 弱者集団(差別や不利益を被ってきた人々のことを指す)を、職業、教育上から差別を撤廃させる措置こと。雇用や教育などにおいて、それらの集団に属する人々を優先的・積極的に採用または選抜すること。大学入試や企業の入社試験時に一定の比率の特別優先枠を設け、その枠を黒人などマイノリティーの応募者に割り当てている。この制度はアメリカで広く採用されていて、これまで不合理な差別を受けてきたマイノリティーに対する社会的地位の向上などのための政策として見直されつつある。


 代表的な特別措置の例として政府の調達契約の一定部分を少数集団や女性が所有する企業に発注したり、少数集団や女性の進出が著しく立ち後れている職種へ優先的に採用、昇格を行ったり、大学入学の際に人種を考慮したりするなどがある。


アファーマティブ・アクションをめぐる判決

 アメリカではアファーマディブ・アクションを”逆差別”であるとして、連邦最高裁判所において数々の判決がなされた。例を挙げるとBakke判決(1978年)、Webber判決(1979年)、Fullilove判決(198年)、Wygant判決(1986年)、Firefighters判決(1986年)、Steel Metal Works判決(1986年)、Johnson(1987年)、Grutter判決・ Gratz判決(2003年)などである。Johnson判決以外はアファーマティブ・アクションによる人種差別の解消についてが争点とされている。特に注目したいのが、Bakke判決とWygant判決の2つでは連邦最高裁判所がアファーマティブ・アクションを否定しているという事実である。特にBakke判決は連邦最高裁判所がアファーマティブ・アクションに対し違憲判決を下した初めての事件である。


バッキー判決

 州立カルフォルニア大学デイヴィス医学校は当時、100人の定員のうち16人を特別枠として設け、マイノリティーの志願者から通常の試験での選抜方法とは異なる方法によって入学を許可するという割当制を行っていた。白人であるアラン・バッキーは1973年と1974年の2回にわたって同大学の医学校に志願した。かれは白人であることから通常の入学試験を受験した。結果的にはその2回とも不合格とされた。だが、バッキーと同じ年に試験を受けたマイノリティーの学生は彼よりも点数が低かったにも関わらず合格となっていた。これを不服と感じたバッキーは州裁判所に訴えたのだった。  第一審ではマイノリティー枠を設けること自体が違憲であるという判決が出た(バッキー本人の入学については許可されなかった)。この事件はカリフォルニア洲最高裁判所に上告される。ここでの判決は、州立カルフォルニア大学デイヴィス医学校の入試制度が憲法の規定する「平等保護条項」に反するとし、違憲となった。ここでバッキーの休学を許可するように判決を下したのである。  結果的に1978年に連邦最高裁判所でも争われ、「この制度は教育において必要不可欠な多様性のある学習環境を確保するために必ずしも必要であるとは言えない」という判決のもと、これもまた憲法の「平等保護条項」に反するとしてデイヴィス校のマイノリティー優遇制度を違憲とみなした。



参考文献

 時事用語のABC weblio辞書

 Yahoo! 百科事典

 http://www.human.tsukuba.ac.jp/~tfujita/gakurui_seminar/kfujita/chapter.3.html

 http://fs1.law.keio.ac.jp/~kubo/seminar/kenkyu/sotsuron/sotsu13/19tohi.PDF (2003年)


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