経済摩擦
出典: Jinkawiki
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日本は戦後の経済発展・産業構造の変化に合わせ、そのときどきにさかんに生産したものを輸出することで経済成長してきた。日本の輸出額は、70年代の10年間で約4倍となり、日本にとって最大の貿易相手国であるアメリカとの間では、日本の一方的な黒字状態が続くようになった。一方、世界的な消費市場となっていたアメリカでは、70年代後半から経常収支の赤字が定着するようになった。これらが貿易摩擦の発生につながり、80年代のアメリカのレーガン政権の、いわゆる「双子の赤字」(軍事費増大による財政赤字の拡大と経常収支の赤字)により、貿易摩擦は激化した。 | 日本は戦後の経済発展・産業構造の変化に合わせ、そのときどきにさかんに生産したものを輸出することで経済成長してきた。日本の輸出額は、70年代の10年間で約4倍となり、日本にとって最大の貿易相手国であるアメリカとの間では、日本の一方的な黒字状態が続くようになった。一方、世界的な消費市場となっていたアメリカでは、70年代後半から経常収支の赤字が定着するようになった。これらが貿易摩擦の発生につながり、80年代のアメリカのレーガン政権の、いわゆる「双子の赤字」(軍事費増大による財政赤字の拡大と経常収支の赤字)により、貿易摩擦は激化した。 | ||
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+ | 日米貿易摩擦(個別商品摩擦)は、主に、まず対米輸出が急増し問題となり、日本側が輸出自主規制や現地生産切り替えをし、最終的には日米政府間で協定が締結されるというパターン展開してきた。貿易摩擦の対象となったのは、1950年代の綿製品、1960年代の毛・化合繊維製品、60年代後半の鉄鋼、70年代のカラーテレビ、70年代から80年代にかけては自動車へと移っていった。 | ||
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+ | 80年代に入ると、世界規模での経済政策調整と、日本の市場開放が問題になり始めた。1985年の'''プラザ合意'''の結果、日本は輸出が伸び悩み、いわゆる円高不況に陥った。また、円高を逆手にとった自動車企業などの海外進出により、日本国内では'''産業の空洞化'''が問題となった。しかし、それでもアメリカの対日貿易赤字は解消されなかった。そこで、80年代後半から90年代には、日本社会の経済構造が問題視されるようになり、アメリカは伝統的な日本企業の系列取り引きを批判し、閉鎖的な市場の開放を求めるようになった。 | ||
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+ | '''プラザ合意''') 1985年、G5のアメリカ合衆国・イギリス・ドイツ・フランス・日本は、為替市場への協調介入でドル高を是正することで合意した。これを、会議場となったホテル名を付してプラザ合意という。この年、アメリカ合衆国は純債務国に転落し、貿易黒字によって経済力を強化する必要に迫られていた。 | ||
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+ | '''産業の空洞化''') 円高の進行や、人件費の高騰に対応して、国内産業(特に製造業)が海外に進出した結果、国内産業の一つの部分がすっぽり抜けてしまうこと。そのために国内での雇用が減ったり、国内産業の衰退につながるとして心配されている。 |
2012年2月9日 (木) 19:12の版
目次 |
経済摩擦
国家間の経済的な利害対立から生じる問題のこと。国際収支、とりわけ経常収支の不均衡が摩擦を生む大きな要因となる。日本の場合、対米関係の経済摩擦では以前は個別の品目をめぐる貿易摩擦が中心であったが、今日では日本の社会制度、行政のあり方、国民の慣習などまでが対象となり、文化摩擦となっている。
貿易摩擦
貿易をめぐって生じる国家間の対立のこと。貿易収支の不均衡が大きな要因。今日の日本は、大幅な貿易収支の黒字を続けており、アメリカ合衆国だけでなくヨーロッパやアジアの国々との間で貿易摩擦が起こっている。
日米経済摩擦
日米間における、主に、日米貿易摩擦を中心とするトラブル。日米間の相互依存関係が深まっていることや、日本側の大幅貿易黒字が恒常的に続いていることから、摩擦が発生している。アメリカ合衆国側は、摩擦解消には、日本側の工業製品や農産物の輸入拡大、規制緩和、市場開放、内需拡大などが必要である、としている。
日米経済摩擦の経緯
摩擦の発生 日本は戦後の経済発展・産業構造の変化に合わせ、そのときどきにさかんに生産したものを輸出することで経済成長してきた。日本の輸出額は、70年代の10年間で約4倍となり、日本にとって最大の貿易相手国であるアメリカとの間では、日本の一方的な黒字状態が続くようになった。一方、世界的な消費市場となっていたアメリカでは、70年代後半から経常収支の赤字が定着するようになった。これらが貿易摩擦の発生につながり、80年代のアメリカのレーガン政権の、いわゆる「双子の赤字」(軍事費増大による財政赤字の拡大と経常収支の赤字)により、貿易摩擦は激化した。
日米貿易摩擦 日米貿易摩擦(個別商品摩擦)は、主に、まず対米輸出が急増し問題となり、日本側が輸出自主規制や現地生産切り替えをし、最終的には日米政府間で協定が締結されるというパターン展開してきた。貿易摩擦の対象となったのは、1950年代の綿製品、1960年代の毛・化合繊維製品、60年代後半の鉄鋼、70年代のカラーテレビ、70年代から80年代にかけては自動車へと移っていった。
日米経済摩擦(構造問題) 80年代に入ると、世界規模での経済政策調整と、日本の市場開放が問題になり始めた。1985年のプラザ合意の結果、日本は輸出が伸び悩み、いわゆる円高不況に陥った。また、円高を逆手にとった自動車企業などの海外進出により、日本国内では産業の空洞化が問題となった。しかし、それでもアメリカの対日貿易赤字は解消されなかった。そこで、80年代後半から90年代には、日本社会の経済構造が問題視されるようになり、アメリカは伝統的な日本企業の系列取り引きを批判し、閉鎖的な市場の開放を求めるようになった。
プラザ合意) 1985年、G5のアメリカ合衆国・イギリス・ドイツ・フランス・日本は、為替市場への協調介入でドル高を是正することで合意した。これを、会議場となったホテル名を付してプラザ合意という。この年、アメリカ合衆国は純債務国に転落し、貿易黒字によって経済力を強化する必要に迫られていた。
産業の空洞化) 円高の進行や、人件費の高騰に対応して、国内産業(特に製造業)が海外に進出した結果、国内産業の一つの部分がすっぽり抜けてしまうこと。そのために国内での雇用が減ったり、国内産業の衰退につながるとして心配されている。