ベルサイユ条約

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ベルサイユ条約は1919(大正8)年6月28日 第1次世界大戦後にドイツと戦勝国であるイギリス・アメリカ・フランス等の連合国との間で締結された講和条約 内容は1919(大正8)年1月18日にフランス外務省で開かれたパリ講和会議で決められた  6月28日、パリ近郊のベルサイユ宮殿・鏡の間で調印 正文用紙には越前和紙(局紙)が使われた アメリカは批准せず、1921(大正10)年7月2日にドイツとベルリン条約を別個にむすんだ ドイツは徴兵制を廃止、陸軍兵力を10万人以下に制限、ライン川左右岸50kmの非武装地帯を設定、輸出入の全面禁止、大半の軍事物資生産の禁止、海軍艦艇の24隻への制限(潜水艦は全面禁止)、海軍兵力は1万5000人以下、1919(大正8)年10月1日まで全軍用航空機を廃棄、全海外植民地 「国際信義に対する最大の侵犯」の罪で前皇帝ウィルヘルム2世を国際裁判にかけることを同意させられる(実施はされなかった) またドイツは天文学的な額の賠償を課せられ、ドイツ国内はインフレーションに苦しむ 賠償はお金だけでなく、船舶・汽車・家畜・天然資源などでも支払われたが、この義務は1932(昭和7)年のローザンヌ会議まで解消されなかった ドイツはベルギー、ポーランド、チェコスロバキア(現、チェコ共和国 スロバキア共和国)、オーストリアの完全な主権をみとめ、ブレスト・リトフスク条約とブカレスト条約を廃棄 アルザス・ロレーヌ地方はフランスに帰属、ザール炭田地方は15年間国際連盟の監理下におかれた ベルギーはオイペン、マルメディ、モレネの小地域を獲得 メーメル(現、クライペダ)港は隣接地域とともに連合国の支配下に置かれた後、リトアニアに譲渡 主要連合国はダンチヒ港を獲得したが、ダンチヒ市(現、グダンスク)をポーランドの管轄する関税と外交をのぞいて、国際連盟の監理する自由市として承認 講和条約の第1編には国際連盟規約がくみいれられ、この平和維持機構には大戦後に締結された諸条約を実行する責任が付された 1920(大正9)年、シュレスウィヒの帰属をきめる人民投票により、北部はデンマークと再統合、中部はドイツにとどまった(→シュレスウィヒ・ホルシュタイン問題) ポーランドにはポーゼン(現、ポズナン)、西プロイセン両州の大半が譲渡される 南東プロイセンと西プロイセンのマリエンベルダーは1920(大正9)年の人民投票の結果、ドイツへの帰属を選択 上シロンスクは1921(大正10)年の人民投票でドイツへの帰属をのぞんだが、国際連盟理事会はポーランドへの割譲を決定 上シロンスクの一部(現、チェコ共和国)は1920(大正9)年にチェコスロバキアへ譲渡された


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