ロシアの教育構造

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目次

概要

19世紀を通じてロシア帝国が展開した民族教育政策について。16世紀以降の領土拡大により、ロシアはその過程で多様な地域・社会・文化を取り込んだ多民族国家の性格を強めていった。西部国境地帯はカトリック・プロテスタントを主な宗教とし、すでに文明化された民族地域であった。故に、中世すでにこれらの地域ではヨーロッパ型都市とそれを基盤とする学校制度を有しており、近世にはヨーロッパ型大学網に組み込まれていた。反対に、かつてのモンゴル帝国の後継である地域、またオスマン帝国やペルシャの勢力圏から獲得したイスラム文化地域、シベリア・極東地域には仏教やアニミズム信仰を有している地域もあった。このように、ロシア帝国が領土拡大での統治上の問題は多様性への対応であったといえる。


1. 西部諸県の教育構造の歴史

16世紀の対抗宗改革運動の中でイエズス会の設けた「ヴィルノ・アカデミー」に根源を持ち、現在のリトアニアの「ヴィリニュス大学」の存在は、西部諸県の教育伝統を最もよく示すものである。この大学はロシア併合後もラテン語とポーランド語を教授言語として分割されたポーランド圏全体の学問・教育上の中心として機能し、中世のヨーロッパ大学網の最北端に位置する1つででもあった。また、カトリック文化圏と正教圏とが接する前線として文化史・教育史上の要地であった。人口比率では帝国の2割程度であったが学校数や生徒数では全国の4割程度を占めた。しかし、11月蜂起を契機として大学が閉鎖され、ロシア的性格を強調した大学が開設された。(これはロシア語の普及の手助けとなった。)一方この地域では、ポーランド系民族の抵抗として、学校離れが進んだ。その結果、家庭教師のよる教育や数家族が協力して私邸で行う教育が組織された。更に、この地域は「ロシアVSポーランド」の図式だけではなく、ウクライナ・ベラルーシ・リトアニア人の上にエリートとしてポーランド人が君臨していた図式もある。

2. 沿バルト諸県の教育構造

沿バルト3県はいずれも実質上の支配者はドイツ騎士団の系譜を引くルター派のバルト・ドイツ貴族であった。しかし、ロシア帝国側は彼らに好意的なアレクサンドル2世の姿勢もあり、この地域の支配体制に寛容であった。それ故、バルト諸県における教育政策はかなりの期間自治と地域的独立性を最大限に尊重したものであった。それは「デルプト大学」が象徴している。教授後はドイツ語で、ロシア帝国と西欧的近代科学の結節点の役割が期待された。また、デルプト大学の状況は中等教育でも確認された。国民教育省管下におかれたとはいえ、伝統に即したドイツの教育を行っていた。しかし、80年台以降本格的になったロシア化政策はこの地域で広範囲に行われ反感を買う事になった。大学は教授語をロシア語にされ、それに激怒したドイツ人学生が去り、本来大学進学資格を持たないロシア正教会進学校生徒比率が急増し、「東欧諸民族の大学」の性格を帯びる大学となった。

3. 帝国東部・南部辺境

これらの地域はペルシア系、トルコ系、フィン・ウゴル系、モンゴル系など様々な民族集団が入り混じって居住し、生活様式も定住と遊牧、農耕と交易というように多様なものであった。更にこれらの地域の多くはイスラム信者で伝統的で宗教と深く結びついた教育機関が形成されていた。そのような教育に対してロシア国家が教育改革を展開するのはドミトリー・トルストイ教育相の時代である。ムスリムに対してはキリスト教教育などを免除した上で初頭民族学校からギムナジアまでの一般学校への就学を推奨し、初等教育の場でのロシア語クラスの設置などにより、ロシア化政策を推し進めた。これ以外にもこれらの地域には様々な形で宗教とともにロシア政府により教育改革が推し進められた。


参考文献:橋本伸也 著2010年『帝国・身分・学校』財団法人 名古屋大学出版会


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