川越城
出典: Jinkawiki
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現、埼玉県川越市に位置する川越城は、扇谷上杉持朝(おうぎがやつうえすぎもちとも)が長禄元年(1457)に太田道真(資清)・道灌(資長)父子ら家臣たちに銘じて築城された城である。当時、持朝は山内上杉房顕(やまのうちうえすぎふさあき)と連合し、古河公方足利成氏と北武蔵の覇権をめぐって攻防を繰り返していた。築城は扇谷上杉領の北端の拠点とするためと考えられている。 小田原を拠点に武蔵への進出を図る後北条氏は、天文6年(1537)に川越城を攻め落とした。天文15年(1546)、扇谷上杉氏は当時対立していた山内上杉氏・古河公方と共に、川越城奪還を図ったが後北条軍の奇襲にあって大敗し(川越合戦)、後北条氏は北武蔵への支配を固めていった。 天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻略に際し、川越城は前田利家らに攻められて降伏した。同年8月、徳川家康が江戸城に入ると、江戸に近い川越城には重臣酒井重忠を置き、その後も幕府の有力な大名たちが川越領を持つことになった。 寛永16年(1639)、川越城主となった松平信綱は川越城の拡張整備を行い、本丸・二ノ丸・三ノ丸・追手曲輪・新曲輪などの各曲輪、3つの櫓、13の門からなる、総面積約9万9千坪(約32万6千㎡)余りの規模をもつ巨大な城郭になった。現在は堀、櫓台、本丸御殿が残る。 明治になると、城としての役目を終え、本丸御殿をはじめとする多くの建物は移築・解体されたが、明治4年(1871)、廃藩置県により川越県に続いて入間県ができると、川越に県庁が置かれ、本丸御殿の玄関と広間部分はその庁舎として利用されることになった。 入間県はすぐに熊谷県、埼玉県と変わったため、県庁は移転し、本丸御殿は「入間郡公会所」になる。また、埼玉県第三尋常中学校(現在の県立川越高校)にもなり、大正7年(1918)には「専売局淀橋専売支局川越分工場」として煙草工場になった。昭和8年(1933)には「初雁武徳殿」として武道場になり、戦後は市立第二中学校(現川越市立初雁中学校)の仮校舎・屋内運動場として使われ、その後は再び武道場になる。 昭和42年には川越城本丸御殿修理工事として、大規模な修理工事を実施し、屋根の修理や間取の復元を行い、現在のような公開施設になる。この年に埼玉県指定有形文化財となる。また、平成23年3月に保存修理工事が完了した。 江戸時代に造られた国内の本丸御殿のうち、現存するのは、川越城と高知城の二つだけである。
参考文献 埼玉県指定有形文化財 川越城本丸御殿 パンフレット
広報 川越 No.1264
埼玉県指定文化財本丸御殿
http://museum.city.kawagoe.saitama.jp/hommaru/