ミサ

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目次

概要

 ミサは信徒たちが裂かれたパンを食べ、賛美の杯からぶどう酒を飲むというキリスト教の典礼である。パンとぶどう酒は十字架の上で裂かれるイエスの身体と流される血を象徴しており、自らの死によって人々を救済したイエスの業を再現している。カトリックや東方正教会や英国教会では毎週日曜日に、大方のプロテスタント教会では祝祭日や特別な記念日、協会が定めた日に行われている。ミサにはパンやぶどう酒、聖杯、ミサ典書、祭壇飾りなどを必要とする。

原形

 イエスの刑死後まもないころ、「教え」「相互の交わり」「パンを裂く」「祈り」の4つのことを共にするために、まだキリスト者という名さえもっていない人々のグループがユダヤ教の神殿での礼拝とは別に、個人の家に集まった。「喜びと真心」がその集まりを特徴づけた。このようにして原始キリスト教共同体、つまりキリスト教会は始まった。  「パンを裂く集まり」がこの共同体の要となる祭儀であり、それは2世紀のはじめには「感謝の祭儀」と呼ばれ、5世紀ごろからこの祭儀全体を指して「ミサ」という言葉が用いられるようになった。

典礼の儀式

 皇帝の改宗によるキリスト教の国教化は典礼の様式に大きな影響をもたらした。豪華な教会建築においては典礼にもまた宮廷儀式のしきたりが取り入れられた。厳かな聖職者団の入堂、捧持して運ぶ燭台の灯火、香、ひれ伏す動作、司式者の介添え、身分を表すしるしなどである。 このような荘厳化に平行して反対方向への動きが生じた。信心ミサと私的ミサである。信心ミサは個人の意向のために捧げられ、私的ミサは司祭が一人で、信徒たちの参列なしに捧げられる。このため中世には大聖堂には主祭壇のほかに数多くの脇祭壇が設けられ、同時に多くのミサが行われるようになった。

祭服

 はじめのころは祭儀を司式する司教、またはその代理者は平常着を着ていた。当時の人はふつう亜麻布または羊毛の織物の長い下着に、ゆったりとした上着を重ねていた。最後の晩餐の席にいたキリストが通常の服を身に着けていたからである。 やがてキリスト教の壁画やモザイクが作られる時代になると司祭はそこにミサの時に特定の祭服をまとった姿で示されるようになる。それはローマ後期の礼服を様式化したものである。足首まで届く白い下衣(アルバ)に帯(チングルム)を締め、その上に幅広のゆったりとした上衣(カズラ)をまとっている。次第に祭服は上質の高価な布地でつくられるようになり、カズラは美しい刺繍で飾られるようになった。布地が高級なものになるにしたがってカズラの幅は縮められ、いわゆるローマ型が生まれた。

 祭服の色は典礼を象徴するものとなり、13世紀には白・赤・緑・紫・黒の5色が確定した。

・白は光や喜び、純潔を象徴し、キリストの祝日、聖母マリアの、また殉教者を除く諸聖人の聖霊降誕の祝日に用いられる。

・赤は血の色として殉教者の祝日に用いられる。また、灼熱と愛の色として聖霊を象徴する。

・緑は特別の祝祭日の多い季節が終わって、特徴を強調しない普通の主日に用いられる。ヨーロッパの季節では地上に緑の色があふれる時期にあたる。

・紫は悔悛、苦業を象徴し、内省的な待降節、四旬節に用いる。

・黒は死と悲しみを象徴する。  

言語

 初代教会のころ、エルサレムではヘブライ語(アラム語)に民衆の国際語であったギリシャ語が混用されていた。地中海世界に信徒が広がるとヘブライ語の要素が減少し、ギリシャ語が用いられ教会の公用語となった。やがてローマを中心とする西ヨーロッパでは、その地方の言語であるラテン語が主流となった。元の言語であったヘブライ語の名残として「アーメン」「ア(ハ)レルヤ」「ホザンナ」などが今に伝わる。


参考文献

  • ミサの物語 和田町子 2001年 日本評論社
  • 図解雑学キリスト教 挽地茂男 2005年 ナツメ社

ハンドル名 イヌ


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