ベトナムの民族政策
出典: Jinkawiki
2012年8月6日 (月) 17:40の版 Daijiten2009 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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民族確定作業
ベトナムには、多数派のキン族と53の少数民族の計54もの民族がいるとされている。そうしたベトナムの民族政策にはある特徴がある。それは、「国家が国定民族を決定し、その分類枠組みに沿って政策を実施する」1という点である。つまり、国家(ベトナム)が国民を明確に民族という枠に分類し、名称をつけ、それぞれに適切な政策を行うことで、諸民族の平等という目標が達成でき、結果国民統合につながる、という考え方である。この考えのもと、各少数民族を調査し、国定民族に分類していく作業のことを民族成分確定あるいは民族成分確明という。
この民族確定作業は、ベトナムが南北に分断されていた1960年頃の北部においてはじめられた。1960~70年代は、国民国家としての独立と統一を目指して、アメリカを相手に戦った時期であった。ベトナム戦争である。そうした状況の中で、国民統合は重要な課題であり、民族確定作業もその一翼を担っていた。また、民族確定作業を行うことで、社会主義の優位性を示すことも意図の中に含まれていた。それは、1950年代半ばに北部の統治を国際的に認められたベトナムにとって、全ての国民の間に平等が確立された社会を建設することは、植民地主義に対する戦いを経てようやく手に入れた国家の存在を正当化することを意味していたからである。目標である平等な社会を実現するための社会主義的政策のひとつが民族確定作業であった。
オドゥ族
ベトナムは、平等な社会を実現するために民族確定作業を行ってきた。この作業によって少数民族として認知されると、少数民族優遇政策によって公的援助が受けられることになっている。
ベトナムにおいて最も人口の少ない国定民族はオドゥ族で、少数民族優遇政策の対象である。しかし、彼らは共に集落をつくるターイ族とコム族の言語や文化に同化し、今や独自の言語も文化も失った小さなグループである。このようなグループが一民族として認められた理由は、当時のベトナム共産党(労働党)の階級的思考の中で少数民族を以下のようにとらえていたことによる。「周辺の多数民族による統治の下で、圧迫・抑圧されてきたより小さな勢力の少数民族は、殺害されたり蔑視されたりするのを避けるため、しばしば自分たちを多数民族の一部と名乗らざるを得ない状況に置かれていた。しかし、共産党が政権を握ってからは民族平等が実現したため、そのような小さなグループも自分自身の本来の民族意識を取り戻し、誇りを持って名乗ることが可能になった。」1よって、本来の独自の民族意識を取り戻したようなグループはたとえ少人数であっても独自民族として認定しなければならないと考えたのである。この考えに当てはまったのがオドゥ族であった。
このようにして創られたオドゥ族には、政治的意図がみられる。それはオドゥ族の暮らす集落がある地域にダム建設を行う過程からうかがえる。
ダム建設により水没地域にある集落は移住することになるのだが、少数民族優遇政策によってオドゥ族は優先的に県内の再定住地へと移住させられ、共に集落を築いていたターイ族とコム族は県外に移住させられた。なぜオドゥ族だけが県内に移住させられたか。理由のひとつに水没する地域の住民をうけいれるだけの土地がなかったことがあげられる。しかし県の本音としては、極小少数民族であるオドゥ族を抱えていれば、特別な投資や優先事項が国家から降りてくるから手離したくなかったのである。
一見素晴らしく見える少数民族優遇政策というベトナムの民族政策だが、上記のように政治的手段として利用されているところがある。また、この政策により、政策の対象にされていない少数民族からは強い不満の声があがっている。このままではベトナムの民族政策の根幹である国家が国定民族を認定し、その枠組みに沿って援助を行うというやり方が限界を迎えてしまうのではないかと思う。
引用・参考文献
1. 伊藤正子 『民族という政治―ベトナム民族分類の歴史と現在』 三元社 2008年 P.14、205、206
2. 長谷川曾乃江、尹健次、伊藤義明、星野智、三浦信孝、ジュタバ・サドリア、伊藤成彦 『民族問題とアイデンティティ』 中央大学出版部 2001年
H.N. 紫虚