ノート:飢饉と米沢藩

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2013年7月18日 (木) 11:20の版
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-== 米沢藩と飢饉 == 
-'''上杉治憲/鷹山(1751~1822)''' 
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-寛政の改革(1787~1793)―松平定信の時代、江戸時代中期の名君。 
-日向高鍋藩の出身。米沢藩主上杉氏の養子となり、17歳で藩主となる。当時、米沢藩は、領地返上を考えるほどの財政難であったが、彼は倹約をすすめ、検知改めや特産品の生産奨励などにより藩財政を立て直す。 
-アメリカのケネディ大統領からも「尊敬する日本の政治家」と賛美された。 
-また、米沢藩の基礎を築いた。 
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-行った政策 
-①米沢織をつくる  
-②興譲館再興  
-④譜代門閥勢力の排除→七家騒動へつながる。 
-⑤有力な人材を登用 
-⑥養蚕・製紙業を奨励し、家内工業をおこす。 
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-上杉治憲/鷹山の名言 
-「為せば成る、為さぬば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」 
-「人民は国家に属したる人民にして我私すべきにはこれなく候」 
-「国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候」 
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-'''なぜ天明の飢饉が起きたのか''' 
-初めに、飢饉は格差によっておきるものである。格差は貧富の差をうむことによって、人に仕事への熱心さもあたえる。 
-しかし、江戸時代においては、士農工商の身分制度など、ひとの努力では補えない格差もあった。 
-また、これらのような努力では解決されない制度や社会、文化はまだ続いている。 
-例 インドの身分制度。 
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-①富む人が食物を確保してしまうから。食べ物はあるのに、お金がなくて食べ物を買うことができないから。 
-②天候不順による冷害によって食物が高騰。商人たちによる囲い米がなされた。また米はとくに冷害被害を受けやすい。→米の公定値段の撤廃によりさらに高騰 
-③政策による。江戸時代中期には、田沼時代からの影響で重商主義政策が施行され、稲作の行き過ぎた奨励がなされた。 
-④幕府に重大な欠陥があった。例年通りの収穫のあった地域の余剰米を強制的に流通させるほどの力がなかった。流通させることができたら、餓死者はでなかったという説もある。 
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-== 米沢藩では、どのくらいの被害があったのか == 
-(天明3年)11万石余りで全収穫の約半分 
-(天明6年)7万石余り 
-米の値段は一俵が二貫100文から三貫七〇〇文へ、天明四年五月には、四貫八〇〇文に到達した。 
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-== 天明の大飢饉(天明4~5)の際米沢藩が行ったこと == 
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-米沢藩の餓死者なし。全国の人口は140万人減った、推測的には、4.6パーセント減ったとされる。 
-行った政策 
-①貧しい家臣や農民に対する賃金や救米などの救済措置があったこと。 
-②備荒貯蓄ー家臣たちへ貸し出したお金は年利5分の20年返済とし、藩の倉へ毎年もみ5000俵と麦2500を蓄え、20年で15万俵備蓄計画。 
-→備籾倉の増設や新田の開発が進められ、天明以降も餓死者はでなかった。 
-③「かてもの」発行。ー約80種の草木について、その食べ方を絵付きで具体的にのべた本 
-→餓死者の多くは、食糧不足により普段口にしないものを食べ、食中毒となるケースが多い。それらを防ぐのに大いに手助けとなった。 
-明治維新後の天保の大飢饉でも、藩主自らが行い、これをみた藩士や領民が実践することにより、餓死者をだすことはなかった。 
-また、昭和16年の市登坂又蔵が現在の活字体に直して印刷し、市民に頒布した。 
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-参考 編集代表早稲田大学教授外円豊基「最新日本史図表」 
-著者片倉比佐子「天明の打ちこわし」出版社新日本出版社2001年10月30日初版 
-著者横山昭男「上杉鷹山」出版社吉川弘文堂昭和62年1月1日新装版第刷 

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