ベトナム戦争11

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Bunkyo-studen2008 (ノート | 投稿記録)

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<概要> <概要>
- ベトナム戦争とは、1960年代初頭から1975年までベトナムの地で繰り広げられた、南ベトナムと北ベトナムとの武力衝突。しかし、戦争の実体は南ベトナムを支援したアメリカと北ベトナムを支援したソ連、中国との政治戦略的な戦争といえる。この戦争の犠牲は大きく、撤退したアメリカ軍でさえ5万8千人以上の戦死者を出しました。南北ベトナム人民に至っては200万近い人が犠牲になったといわれていて、大量に空中散布された枯葉剤の後遺症(特にダイオキシンの影響)が、四半世紀近くたった今でも残っている。+ ベトナム戦争とは、1960年代初頭から1975年までベトナムの地で繰り広げられた、南ベトナムと北ベトナムとの武力衝突。しかし、戦争の実体は南ベトナムを支援したアメリカと北ベトナムを支援したソ連、中国との政治戦略的な戦争といえる。この戦争の犠牲は大きく、撤退したアメリカ軍でさえ5万8千人以上の戦死者を出しました。南北ベトナム人民に至っては200万近い人が犠牲になったといわれている。
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 +<この戦争の特徴>
 + 戦争の前線が存在しなかったことがあげられる。戦闘は南ベトナム領内のあちこちで発生した。北ベトナム側は、ベトコンと呼ばれた「南ベトナム解放民族戦線」を中心に南ベトナム領土内でゲリラ戦を展開した。ゲリラ戦とは、敵を待ち伏せ、短時間の攻撃を仕掛けた後さっと引き上げるといった戦略のことである。軍隊同士の正面切った戦いではなく、小競り合いのような戦闘が多かった。理由は、ベトコン側が軍備を湯水の如く投入してくるアメリカの近代戦争と真っ向から戦ったのでは勝ち目がないことをよく知っていたからである。
 + このように、いつどこからともなく仕掛けられる戦いに、前線のアメリカ兵は恐れおののき、終いには戦力を喪失し、軍隊の士気の低下を招いた。
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 +<日本の立場>
 + 日本各地にある軍事施設は、アメリカがこの戦争を遂行する上で不可欠なものであった。日本の産業力が供給する資材や技術なども、米軍の攻撃を支える大きな要因だったからだ。日本政府は、日米安保条約がある以上、この戦争に中立ではいけないと判断し、アメリカの政策を一貫して支持し続けた。日本の軍隊を直接派遣することはなかったものの、日本はベトナムの民衆を相手とするこの戦争に深く関わった。また、ベトナム特需により日本経済が潤ったのも事実である。
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 +<枯葉剤>
 + 頻出するベトコンのゲリラに手を焼いたアメリカ軍は、補給路を絶とうとして、大規模な空爆を行ったり、枯葉剤の散布などを行った。アメリカ軍は故意的に一般人を殺戮する目的で枯葉剤を使用したわけではなく、ジャングルを巧みに利用して襲ってくるゲリラ軍に対抗してこの枯葉剤を使用した。しかし当時は、除草剤に有害な物質が含まれていることがあまり知られておらず、森林に住む多くの一般住民に健康被害を与える結果となった。有害な物質=(ダイオキシン)の人体への作用は主に生殖器系に障害をもたらすとされている。実際問題、4世紀たった今でも、奇形の子供が生まれてくるなど被害は途絶えていない。
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 +<終戦>
 + 結局米軍も北ベトナム軍などの強力な抵抗に手を焼き、一進一退が続いた。そうこうするうちにアメリカ国内の反戦運動が激化し、戦死傷者も増大していった。そして戦闘が泥沼化し、1973年にベトナムから撤退。その後南ベトナム軍が独自に戦闘を続けていたが、弱体で士気が低く、北ベトナム軍の猛攻の前に潰走し、1975年サイゴン(現在のホーチミン市)陥落をもって終戦を迎えた。
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<概要>  ベトナム戦争とは、1960年代初頭から1975年までベトナムの地で繰り広げられた、南ベトナムと北ベトナムとの武力衝突。しかし、戦争の実体は南ベトナムを支援したアメリカと北ベトナムを支援したソ連、中国との政治戦略的な戦争といえる。この戦争の犠牲は大きく、撤退したアメリカ軍でさえ5万8千人以上の戦死者を出しました。南北ベトナム人民に至っては200万近い人が犠牲になったといわれている。

<この戦争の特徴>  戦争の前線が存在しなかったことがあげられる。戦闘は南ベトナム領内のあちこちで発生した。北ベトナム側は、ベトコンと呼ばれた「南ベトナム解放民族戦線」を中心に南ベトナム領土内でゲリラ戦を展開した。ゲリラ戦とは、敵を待ち伏せ、短時間の攻撃を仕掛けた後さっと引き上げるといった戦略のことである。軍隊同士の正面切った戦いではなく、小競り合いのような戦闘が多かった。理由は、ベトコン側が軍備を湯水の如く投入してくるアメリカの近代戦争と真っ向から戦ったのでは勝ち目がないことをよく知っていたからである。  このように、いつどこからともなく仕掛けられる戦いに、前線のアメリカ兵は恐れおののき、終いには戦力を喪失し、軍隊の士気の低下を招いた。

<日本の立場>  日本各地にある軍事施設は、アメリカがこの戦争を遂行する上で不可欠なものであった。日本の産業力が供給する資材や技術なども、米軍の攻撃を支える大きな要因だったからだ。日本政府は、日米安保条約がある以上、この戦争に中立ではいけないと判断し、アメリカの政策を一貫して支持し続けた。日本の軍隊を直接派遣することはなかったものの、日本はベトナムの民衆を相手とするこの戦争に深く関わった。また、ベトナム特需により日本経済が潤ったのも事実である。

<枯葉剤>  頻出するベトコンのゲリラに手を焼いたアメリカ軍は、補給路を絶とうとして、大規模な空爆を行ったり、枯葉剤の散布などを行った。アメリカ軍は故意的に一般人を殺戮する目的で枯葉剤を使用したわけではなく、ジャングルを巧みに利用して襲ってくるゲリラ軍に対抗してこの枯葉剤を使用した。しかし当時は、除草剤に有害な物質が含まれていることがあまり知られておらず、森林に住む多くの一般住民に健康被害を与える結果となった。有害な物質=(ダイオキシン)の人体への作用は主に生殖器系に障害をもたらすとされている。実際問題、4世紀たった今でも、奇形の子供が生まれてくるなど被害は途絶えていない。

<終戦>  結局米軍も北ベトナム軍などの強力な抵抗に手を焼き、一進一退が続いた。そうこうするうちにアメリカ国内の反戦運動が激化し、戦死傷者も増大していった。そして戦闘が泥沼化し、1973年にベトナムから撤退。その後南ベトナム軍が独自に戦闘を続けていたが、弱体で士気が低く、北ベトナム軍の猛攻の前に潰走し、1975年サイゴン(現在のホーチミン市)陥落をもって終戦を迎えた。


 


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