インドの宗教的対立
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最新版
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インドの基本情報
正式名称はインド共和国 面積は328万7,263平方キロメートル 人口は12億1,000万人で世界第2位である。そのうち民族はインド・アーリヤ族、ドラビダ族、モンゴロイド族等 首都はニューデリー 言語は、連邦公用語はヒンディー語、他に憲法で公認されている州の言語が21個ある。識字率は74.04%だ。
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宗教的対立
インドの人口は10億人を超え、経済規模は拡大している。しかし、国境紛争はあり隣国パキスタンと争っている。これがカシミール紛争だ。この紛争の原因にはイスラム教とヒンドゥー教の宗教対立も絡み合って問題を複雑化させている。カシミール地域ではイスラム教徒が住民の多数を占めていた。藩王がヒンドゥー教徒だったため、1947年の印パ分離独立時に帰属が決まらず、宙に浮いた。独立から2か月後、イスラム教徒による暴動が発生。藩王はインドへの帰属を表明し、暴動の鎮圧にインド軍派兵を要請した。これをきっかけに第1次印パ戦争が勃発した。49年に国連の調停で停戦が合意されたが、カシミールは停戦ラインをはさんで分断統治されることになった。その後、カシミール地域は65年の第2次印パ戦争、71年の第3次印パ戦争でも戦場になった。89年以降、イスラム過激派の民兵がカシミールを新たな「聖戦」の舞台と位置づけ、パキスタン側からインド側に入ってくる「越境テロ」が激化し、緊張が増した。何度か戦争になったがまだ安定しておらず、現在も治安はかなり悪い状態である。
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参考文献
引用 外務省ホームページ<http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/india/index.html>
コトバンク <http://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%95%8F%E9%A1%8C> 世界大百科事典 平凡社
ハンドル名 わさびもち