第一次世界大戦2

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2013年8月7日 (水) 23:09の版
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2013年8月7日 (水) 23:10の版
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1916年:ソンムの戦い→協商国軍が反撃に転ずるもドイツ軍が死守 1916年:ソンムの戦い→協商国軍が反撃に転ずるもドイツ軍が死守
1917年:ロシア三月革命→アメリカ合衆国が協商国側に立って参戦 1917年:ロシア三月革命→アメリカ合衆国が協商国側に立って参戦
-1918年:ウィルソンが十四カ条を発表→ロシアがドイツとブレスト=リトフスク条約を結ぶ→ロシアが戦線離脱+1918年:ウィルソンが十四カ条を発表→ロシアがドイツとブレスト=リトフスク条約を結ぶ→ロシアが戦線離脱→オーストリアが降伏→ドイツが協商国側と休戦条約を結ぶ→第1次世界大戦終結

2013年8月7日 (水) 23:10の版

<きっかけ>  サラエヴォ事件→1914年6月28日、陸軍大演習しさつのためボスニアの州都、サラエヴォに到着したオーストリア皇位継承者(フランツ=フェルディナント)夫妻を、パン=スラヴ主義のグループに属していたセルビアの学生、プリンチップが暗殺した事件のことである。1908年のオーストリアによる、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合に対する、セルビア側の憤激が爆発したもので、この事件が第一次世界大戦の直接的な原因になった。

<経緯> 1914年:サライェヴォ事件→オーストリアがセルビアに宣戦→第1次世界大戦勃発→ドイツがロシアに宣戦→ドイツがフランスに宣戦→ドイツ軍がベルギーの中立を侵犯→これによってイギリスがドイツに宣戦→日本がドイツに宣戦→ドイツ軍がロシア軍を撃破→タンネンベルクの戦い→ドイツ軍がロシア軍を撃破→マルヌの戦い→フランス軍がドイツ軍の進撃を阻止 1915年:日本が中国に対華二十一カ条要求を出す→イタリアが連合国側に立って参戦→ 1916年:ソンムの戦い→協商国軍が反撃に転ずるもドイツ軍が死守 1917年:ロシア三月革命→アメリカ合衆国が協商国側に立って参戦 1918年:ウィルソンが十四カ条を発表→ロシアがドイツとブレスト=リトフスク条約を結ぶ→ロシアが戦線離脱→オーストリアが降伏→ドイツが協商国側と休戦条約を結ぶ→第1次世界大戦終結


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