バテレン追放令

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笹山晴生、五味文彦、他9名編 1994 『詳説 日本史史料集 再訂版』 山川出版社 笹山晴生、五味文彦、他9名編 1994 『詳説 日本史史料集 再訂版』 山川出版社
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 豊臣秀吉が1587年(天正15年)6月19日付で発令したとされる、5カ条からなる外国人宣教師の国外退去等を定めた法律。九州征伐からの帰途、博多において突如発令された。 キリシタンに対して20日以内に日本から退去することを命じたが、布教と貿易を切り離そうとしたこの政策は現実的ではなく、キリシタンの一掃というのも無理な話であった。


目次

発令前の秀吉

 16世紀中頃、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが島津貴久の許可を得て鹿児島に上陸してから、日本にキリスト教(カトリック)が広まり始めた。織田信長は、顕如 を筆頭とする石山本願寺と約10年間も争い続けたり比叡山延暦寺を焼き打ちしたりする一方で、このキリスト教には寛容な姿勢で対応していた。具体的には、ルイス・フロイ スの京都在住許可、京都に南蛮寺(教会)の建設許可、安土にセミナリオ(神学校)の建設許可などを行っていた。キリスト教に寛大な政策をとっていた信長の亡き後、秀吉 も当初はこの方針を引き継いでキリスト教保護政策を行ってきた。具体的には、1583年の9月、中部日本教区長のイタリア人オルガンティノは秀吉のもとを訪れて、教会を建 てるために敷地を賜りたいと願い出た。すると秀吉は非常に上機嫌になり、バテレンや日本人修道士ロレンソ、信徒である小西ジョウチン立佐、安威シモン了佐を別室に招き 入れ、「バテレンの望みを叶え、その他大勢の者に断った極上の敷地を進ぜよう」という旨の発言をしたという。また、1586年にガスパル・コエリヨをはじめとする四名の バテレン、四名の修道士のほか、セミナリオの少年等を合わせて約三十名が大坂城を訪ねた際に、秀吉はみずから先頭になって城内をくまなく案内し、歓待していたという。 さらに、バテレン追放令を発令するわずか十日ほど前にも、博多港外に泊まっていたフスタ船に乗り込んでバテレンたちと仲良く会話し、博多への教会建設も許可していた。 しかしながらこの後、突如としてバテレンに対して激しい怒りをぶつけることとなる。信長時代からもともとキリスト教を良く思っていなかった、という説など数多くの研究 がなされてきているが、真相の究明には至っていない。


発令

 追放令を発する前日に秀吉はキリシタン宗門に対して朱印状を発していた。全部で十一カ条からなり、日付は6月18日付、伊勢の神宮文庫の『御朱印師職古格』に載って いる。第一条は「伴天連門徒之儀、其者之心次第たるべき事」、すなわちキリスト教の信仰は自由であるとされ、ほぼ同様の内容が第五・九条でも繰り返されている。第二条 では、諸大名が領地内の寺請百姓以下に信仰を押し付けることは許されない、第三条では、諸大名に与えられた所領は当座のことで替ることがあるが百姓は替らぬから無理難 題を押し付けるな、もしそんなことをすれば処罰する、と記されている。また第四・五条では、一定の基準を満たしている大名がキリシタンになる場合は公儀の許可が必要で あるが、それ以下の者については自由な改宗を認めている。さらに第八条では、一向宗・キリスト教を「天下の障り」と述べている。


 1587年6月19日夜、九州征伐を終えた秀吉はキリシタンである小西アゴスチイノ行長の家臣等を日本イエズス会の副管区長ガスパル・コエリヨのもとに遣わして、詰問状を 突き付けた。この詰問状により、人民を強制的に改宗させることや社寺の破損などのバテレンおよびポルトガル人商人の行為についての釈明を求めたのであった。

 翌20日朝、秀吉は諸大名を集めてバテレンの追放を指示した。五カ条からなり、日付は6月19日付、文書は平戸の松浦史料館に写しか控えとされるものがある。内容の概略 は以下の通りである。

一、日本ハ神国たる処、きりしたん国より邪法を授け候儀、太以て然るべからず候事。

一、其国郡の者を近付け門徒になし、神社仏閣を打破るの由、前代未聞に候。国郡在所知行等給人に下され候儀は、当座のことに候。…(略)

一、…(略)、伴天連儀、日本の地ニハおかせられ間敷候間、今日より廿日の間ニ用意仕り帰国すべく候。…(略)

一、黒船の儀ハ商売の事に候間、各別に候の条、年月を経、諸事売買いたすべき事。

一、自今以後、仏法のさまたげを成さざる輩は、商人の儀は申すに及ばず、何れにてもきりしたん国より往還苦しからず候条、其の意を成さるべきこと。

 以上のように、この追放令ではキリシタンに二十日以内に国外退去すること命じている。しかし、季節風の関係で出船が不可能であったため、二十日以内に国内から出てい くというのは無理な話であった。また、カトリックはプロテスタントと異なり、布教と貿易を一体となって行おうとしていた。そのため秀吉は第四条にわざわざ、黒船(貿易 を行う南蛮船)はこれまでどおりに貿易をしてもよい、と記している。しかし、結果的にはキリスト教の取り締まりは不徹底となってしまい、布教と貿易を切り離す難しさを 示している。この教訓を、江戸幕府は鎖国体制において活かしている。 布教と貿易の扱いを分離したため、キリスト教への取り締まりは不徹底となった。


発令の理由

 なぜいきなりバテレン追放令を発したか。秀吉のその真意は分からないままだが、広く言われている説はある。まず、イエズス会は貿易という側面から関心を持ってもら い、それと同時に布教を行うことで多くの西国大名から支持を得て、キリシタン大名となっていった。カトリックでは霊父制度という洗礼の方法があり、その制度も利用しな がら大名からその家臣、領民へと信者を増やしていった。その驚異的な信者の増加と団結力の深さに、一向宗等に対するものと同様の恐れを抱いたという考えもある。また、 日本は神国であるので、キリスト教の文化や考え方と大きく矛盾が生じ、当時天下統一過程の秀吉にとって当地の大きな弊害となったとする考えもある。いずれにせよ、秀吉 にとってキリスト教が脅威であり、全国統治に際して取り除かなくてはならない天下の障りであった。 


参考文献

小和田哲男 1985 『豊臣秀吉』 中公新書

松田毅一 1992 『豊臣秀吉と南蛮人』 朝文社

榎本秋 2011 『徹底図解 豊臣秀吉』 新星出版社

相澤理 2012 『歴史が面白くなる 東大のディープな日本史2』 中経出版

笹山晴生、五味文彦、他9名編 1994 『詳説 日本史史料集 再訂版』 山川出版社


編集:sunfl


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