エスペラント3

出典: Jinkawiki

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2008年7月10日 (木) 11:46の版
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もともとその地方にあった方言をつぶして、植民する国家の言語使用を強制するというのは、もともとあった地方のアイデンティティを抹殺することにつながる。意志疎通を図るいちばんの手段である言語は、人々の考え方、思想、文化を構築する基盤となる。人間社会では自然発生するものであるはずだった言語の中に、人工的に作られた言語が誕生した。  以下は田中克彦の「エスペラント―驚異の言語」から引用した。

エスペラントを作ったザメンホフは、どの民族のでもない、まったく新しい言語を作り出すことによって、人類に属する一個人になろうとしたのである。ひとつの言語を使うことによって、民族も国家も超えた、ただ一つの人類のメンバーという思想は、民族と国家を経ずして個人が直接人類に結びつくような言語として現れた。 エスペラントはまさに言語を生物・自然とする考え方から、社会の制度と見る考えと大きく移っていく言語学の大転換期に生まれた、それはまた数々の民族が、それぞれの母語を掲げて国家へと自立していく「民族と国家」の時代とも一致していた。だから、民族と国家を乗り越えようとするエスペラントは、民族語=国語の敵とみなされ、国家から迫害を受けた。 ソビエト連邦では、国境を越えた労働者連帯の言語としてエスペラントが支持を集めはじめた。すでに1921年にはSEU(ソビエト・エスペラント同盟)が設立され、1930年にはスターリンが第16回党大会で、将来は人類は一つの言語を話すようになるであろうと演説したために、ソ連のエスペランティストは、国家の最高権力からも支持が得られたものと考えた。しかし1937年にはSEUに解散命令を出し、エスペラトに対する大弾圧が始まったのである。  ヒトラーもまた1936年にエスペラント運動を禁止していた。ヒトラーは1937年、英語を中等教育の第一言語とするように指示したのである。 権力の出方を見ると、エスペラントは正当の言語学の伝統から見て異端の言語であったにとどまらず、さらに政治的には危険な脅威の言語になったことがわかる。 しかしそれは、エスペラントの理念や理想を傷つけることはなく、逆にその権威を高めたとさえいえるのである。外からの政治的な圧力は、エスペラントに傷を負わせるものではなかった。言語としてのエスペラントの本質にはかなわないからである。  エスペラントを学ぶことによって、特定の国家と、それに結びついた言語の権威から自由になれる。平等のことばである。


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