プラッシーの戦い
出典: Jinkawiki
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2016年7月30日 (土) 23:02の版
プラッシーの戦い(プラッシーのたたかい、英語:Battle of Plassey)は、1757年6月23日にインドのベンガル地方の村、プラッシーにおいて、イギリス東インド会社軍とベンガル太守およびフランス連合軍との戦い。この戦いは、1756年、シュレジエン奪還を目指すオーストリアに対し、プロイセンが先制して始まった七年戦争とも関係が深い、イギリス・フランス間の植民地戦争の一つである。この戦いに圧勝したイギリスがフランス勢力をインドから駆逐し、ベンガル地方太守を傀儡化するなどインド支配を進める一歩となる戦いである。
目次 |
経緯
イギリスは、1600年に東インド会社を設立し、マドラス、ボンベイ、カルカッタを拠点にした。それに対し、フランスは1604年に東インド会社を設立するが、まもなく活動を停止する。1623年、モルッカ諸島のアンボン島でおこった紛争であるアンボイナ事件が勃発した。この事件の影響により、イギリス勢力はインドネシアから撤退しなければならなくなったため、インドに拠点を移す契機となった。しばらくしてフランスは、コルベールの重商主義政策の一環として、ほとんど機能していなかった東インド会社を再建し、ポンディシェリ、シャンデルナゴルを拠点とした。シャンデルナゴルの近くには、カルカッタがあるため、フランスとイギリスの対立関係は深まった。 ムガル帝国はベンガル地方にベンガル太守(ナワーブ)を置いて支配したが、皇帝が死んでしまった後は帝国は分裂状態なったため、この地を太守は事実上独立した。それに乗じて、イギリスは積極的に貿易活動をしたが、関税の問題などから対立が深まっていく。イギリスはこのベンガル太守の許可なくフランスの進出に備えるためという理由で、カルカッタの要塞を強化した。これの中止をベンガル太守は命じたが、イギリス側が拒否したため、カルカッタのイギリス兵を追い出した。イギリスは政治家、軍人であるクライブの指揮する軍隊を派遣した。ベンガル太守はフランスに協力を求め、両軍は1757年6月23日プラッシーの野で対峙した。
戦闘
ベンガル太守は数の上では圧倒的であったが、ちょうど戦闘の際は雨だったため大砲を使用することができなかった。それでもベンガル太守側攻勢に出たが、そこには思いがけない罠が仕掛けられていた。クライブはベンガル太守の参謀長であるミール=ジャーファルに次のベンガル太守の後任にすることを条件に謀反を働きかけていたのである。そのためベンガル太守軍の中で戦ったのは、親衛隊とフランス軍だけで、ミール=ジャーファルの指揮していた主力の軍はただ傍観していただけで戦闘への参加消極的な態度をとっていたのである。それでもベンガル太守側が優勢になるとあろうことか「明日の勝利を期して」と太守に進言した。太守が退却を決意して軍の者に伝えたところ前線は混乱し、戦意を失い、その隙をついて東インド会社が側の軍が攻め込み、戦況を逆転することに成功する。罠にはまったことに気付いた太守は逃げるが数日後捕らえられて処刑されてしまう。 イギリスとフランスはこの戦いと同じ時期に、アメリカ大陸でのフレンチ=インディアン戦争、ヨーロッパ本土での七年戦争でも戦っており、南インドでは第3次カーナティック戦争を戦っていた。
戦後
七年戦争、プラッシーの戦い、カーナティック戦争、フレンチ=インディアン戦争の全てが終結した1763年に関係諸国間でパリ条約を締結した。フランスはインドにおいての領土は、ポンディシェリ、シャンデルナゴルを回復したが、その他の権利や領土は失ったため、イギリスのインド支配が決定的となった。プラッシーの戦いに勝利したイギリスは、インドを貿易の対象として治めることができたが、それはその後の植民地支配につながる戦いとなったのである。この戦いを通じてベンガル地方のディーワーニー(徴税権)を獲得、マイソール戦争、マラーター戦争、シク戦争などの戦いに勝利したイギリスはインド支配を進行していき、1857年、インド大反乱と呼ばれるシパーヒーの反乱を鎮圧し、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねる形で1877年インド帝国が成立した。
参考文献
世界史の窓http://www.y-history.net/appendix/wh1002-035.html
山川出版「詳説世界史」
山川出版「世界史用語集」