プラッシーの戦い

出典: Jinkawiki

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2016年8月5日 (金) 13:12の版

プラッシーの戦い(プラッシーのたたかい、英語:Battle of Plassey)は、1757年6月23日にインドのベンガル地方の村、プラッシーにおいて、イギリス東インド会社軍とベンガル太守およびフランス連合軍との戦い。この戦いは、1756年、シュレジエン奪還を目指すオーストリアに対し、プロイセンが先制して始まった七年戦争とも関係が深い、イギリス・フランス間の植民地戦争の一つである。この戦いに圧勝したイギリスがフランス勢力をインドから駆逐し、ベンガル地方太守を傀儡化するなどインド支配を進める一歩となる戦いである。

目次

経緯

16世紀にはポルトガルが東インド貿易の主役であったが、17世紀には、オランダとイギリスが主役を演じるようになった。当時ヨーロッパでは重商主義が全盛で、各国は東インド会社を作って、国が特権商人を援助し、貿易の独占を競った。ジャハーンギールの治世に、ポルトガルはムガル朝と衝突した。それに代わり、イギリスは、1600年に東インド会社を設立した。彼らはジャハーンギールの宮廷に使節を送ってボンベイ北方のスーラトに商館を開き、その後ムガル朝との友好関係を維持した。1602年に創設されたオランダ東インド会社の規模はイギリスのものに比べて遥かに大きかったが、彼らはジャワのバタヴィア(現ジャカルタ)を根拠地に東南アジアの香辛料貿易の独占をめざした。また、インドでも、スーラト、コチン、マスリパタムなどに商館を開いて、東南アジアへ輸出する綿布の買い付けなどを行った。アウラングゼーブ帝の治世にポルトガルはほとんど力を失い、オランダは引き続き東南アジアでの活動に力を入れていた。勢力を伸ばしたのはイギリスで、スーラトの商館はたびたびのシヴァージーの侵入にもかかわらす維持され、更にベンガルでも活動が続けられたイギリスは一時ムガル朝と衝突してその両方の地を追われるが、すぐに和解が成立した。1690年、フーグリー川のほとりに築かれた商館は、後にカルカッタとした発展することになる。17世紀前半に進出したフランスとデンマークは、南インドを中心に活動を続けていた。イギリス東インド会社の拠点は、会社組織の再編成が行われた1709年以降、ボンベイ、マドラスのセント・ジョージ要塞、ベンガルのウィリアム要塞(カルカッタ)の三地点とされ、それぞれに近隣のいくつかの商館や要塞が付属して、管区を形成するようになっていった。スーラトはボンベイに編入された。1744年のボンベイの人口は7万人、カルカッタは10万人、マドラスは一番多く30万人の人口を抱えていた。従来の交易のパターン、すなわち、ヨーロッパから持ち込んだ銀でインドの綿布を買い、それを東南アジアへ運んで香辛料を購入する、あるいは、インドから香辛料を持ち帰るといった交易パターンはこの時代に徐々に変化し、香辛料・綿布に加えて、ベンガル産のインディゴ(藍)や硝石がヨーロッパ市場で大きな需要を呼ぶようになっていた。それは、インド会社に大きな利益をもたらしたが、同時に、会社に属する個々の人間も、個人的な取引によって大きな利を得ることになった。また、要塞の周辺には職工や仲買人など大勢のインド人が住みつき、イギリス人も商品を求めて内陸部まで入り込むようになっていった。この商取引において、イギリス人を悩ませたのは各地で取られる関税であったが、彼らは年三千ルピーを支払い、その代わり、会社の取り扱う商品の自由な通関を保証する自由通関券(ダスタック)を得ることでそれを解決した。フランスは1604年に東インド会社を設立するが、まもなく活動を停止する。1664年財務総監コルベールによって再建されたフランス東インド会社は、自由な商人たちの集まりといった性格をもつイギリスの東インド会社に比べて、国家が経営する色彩が強かったが、綿布。絹織物の取引を中心にポンディシェリを拠点として活動を続け、18世紀前半には業績を大きく伸ばした。しかし、総貿易高は、イギリスの半分程度にとどまっていた。オランダのアジア進出の拠点はバタヴィア(現ジャカルタ)であったが、インドでもナーガパッティナム、マスリパタムなどを中心に貿易活動を続けていた。しかし、当時マラバール海岸南部に台頭したマールターンダ・ヴィルマ王に1741年に起こったコラチェルの戦いで敗北するなどして次第にインドから撤退した。デンマークの活動も微々たるものにとどまっていた。インドで大きな勢力を築きつつあったイギリスとフランスは、いずれはインドの支配をめぐって衝突する運命にあったが、1740年にヨーロッパでオーストリア継承戦争が勃発すると、1744年ついにインドでも矛を交えることになった。それはカーナティック戦争である。ポンディシェリには、フランスの総督として1742年デュプレクスが着任していたが、フランス艦隊は1746年、イギリスの拠点のマドラスを攻撃して戦いは続いたが、1748年、オーストリア継承戦争の終結と同時にこの戦いも終わり、マドラスはイギリスに返還された。ムガル帝国はベンガル地方にベンガル太守(ナワーブ)を置いて支配したが、皇帝が死んでしまった後は帝国は分裂状態なったため、この地を太守は事実上独立した。それに乗じて、イギリスは積極的に貿易活動をしたが、関税の問題などから対立が深まっていく。イギリスはこのベンガル太守の許可なくフランスの進出に備えるためという理由で、カルカッタの要塞を強化した。これの中止をベンガル太守は命じたが、イギリス側が拒否したため、カルカッタのイギリス兵を追い出した。イギリスは政治家、軍人であるクライブの指揮する軍隊を派遣した。ベンガル太守はフランスに協力を求め、両軍は1757年6月23日プラッシーの野で対峙した。

戦闘

ベンガル太守は数の上では圧倒的であったが、ちょうど戦闘の際は雨だったため大砲を使用することができなかった。それでもベンガル太守側攻勢に出たが、そこには思いがけない罠が仕掛けられていた。クライブはベンガル太守の参謀長であるミール=ジャーファルに次のベンガル太守の後任にすることを条件に謀反を働きかけていたのである。そのためベンガル太守軍の中で戦ったのは、親衛隊とフランス軍だけで、ミール=ジャーファルの指揮していた主力の軍はただ傍観していただけで戦闘への参加消極的な態度をとっていたのである。それでもベンガル太守側が優勢になるとあろうことか「明日の勝利を期して」と太守に進言した。太守が退却を決意して軍の者に伝えたところ前線は混乱し、戦意を失い、その隙をついて東インド会社が側の軍が攻め込み、戦況を逆転することに成功する。罠にはまったことに気付いた太守は逃げるが数日後捕らえられて処刑されてしまう。 イギリスとフランスはこの戦いと同じ時期に、アメリカ大陸でのフレンチ=インディアン戦争、ヨーロッパ本土での七年戦争でも戦っており、南インドでは第3次カーナティック戦争を戦っていた。

戦後

七年戦争、プラッシーの戦い、カーナティック戦争、フレンチ=インディアン戦争の全てが終結した1763年に関係諸国間でパリ条約を締結した。フランスはインドにおいての領土は、ポンディシェリ、シャンデルナゴルを回復したが、その他の権利や領土は失ったため、イギリスのインド支配が決定的となった。プラッシーの戦いに勝利したイギリスは、インドを貿易の対象として治めることができたが、それはその後の植民地支配につながる戦いとなったのである。18世紀中葉、南インドの東海岸と東インドのベンガル地方にイギリスの権力が確立され、その統治が始まったとき、それに対抗しうる勢力は、今や、デカン西北部のマラーター諸侯、ハイダラーバードの二ザーム政権、それにデカン南部のマイソール王国の三者のみとなっていた。その中で、イギリスに対して果敢に戦いを挑んだのはマイソール王国であった。マイソールの地には、ヴィジャヤナガル朝末期から地方領主ウォデヤ家の勢力が確立していたが、その武将の一人、ムスリムのハイダル・アリーがカーナティック戦争の過程で頭角を現し、1761年、事実上の支配者となった。マイソール王国は彼の指揮下で勢力を拡大し、脅威を感じた隣国のマラーターとハイダラーバードは、イギリスと結んでマイソールに対抗しようとした。ここに1767年、イギリスを主な相手とする第一次マイソール戦争が起こった。しかし、イギリスはアメリカ植民地をめぐる問題で消耗してインド力を注ぐことができず、マドラスを包囲され、1769年和議を結んだ。その後イギリスは1775年マラーターと戦争状態に入った。その後マラーターでは内紛が続き、イギリスはその状況を利用して、1799年にまたもマイソールへの攻撃を敢行し、王都セリンガパタム(シュリーランガパトナム)を落とした。その戦いでティプは果敢な戦死を遂げ、ここにアリー、ティプ二代にわたってイギリスに対抗したマイソール王国は滅亡した。ティプ・スルタンは同時代の他のインドの王を異なって、当時の世界状況をもよく理解していた。彼はイギリスに対抗するために、同じイスラーム教国であるアフガン、アラビア、オスマン帝国などに使節を送り、またフランスに誕生した革命勢力とも手を結び、軍隊、行政の改革を行った。しかし彼のそのような努力も、マラーター、ハイダラーバードの勢力が目前の利益からイギリスの滅亡によって、イギリスはフランスの勢力を完全に駆逐し、インドにおける覇権を確立したのである。イギリスはこのように戦役によってインドの支配を拡大しただけでなく、分立する政治権力と軍事保護同盟を結ぶことによって、支配を固めていった。軍事保護同盟とは、通常その国を軍事的に保護することを名目に、イギリスが軍隊および駐在官を駐留させ、その国が費用を負担sる関係をいい、さらに被保護国は他国との関係についてイギリスの承認なしには、何も交渉も成しえないという、外交権を¥の喪失をも意味していた。またイギリスは駐在官を通じてしばしば内政にも干渉し、さらに巨額の軍事費を要求し、やがて条約を結んだ国は経済的に破綻し、ついにはイギリスに領土を割譲せざるをえなくなることが多かった。18世紀末からイギリスはこのような条約を多くの勢力と結んだが、その最初が1798年のハイダラーバードであった。これにより二ザーム政権はそれまでのフランス式軍隊を放棄し、1800年には領地の割譲を余儀なくされている。戦争に敗れたマイソールも1799年条約を結び、領土を縮小されたうえに、完全にイギリスの支配下に入ることになった。1801年にはアウドの王国がこの条件を結ばされ、同年、カーナティックのナワーブは、ティプ・スルタンとの内通を理由にその領土を奪われた。このようにイギリスのインドに対する関係が、それまでの単なる貿易関係から、戦争の遂行、領土の支配へと変化していくに従って、インドおよび本国における東インド会社の地位と機構にも大きな変化が生じることになった。その変化には、イギリス自体における産業革命の進展も大きくかかわっていた。その後イギリスは、1857年、インド大反乱と呼ばれるシパーヒーの反乱を鎮圧し、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねる形で1877年インド帝国が成立した。

参考文献

世界史の窓http://www.y-history.net/appendix/wh1002-035.html

山川出版「詳説世界史」

山川出版「世界史用語集」

朝日新聞社「地域からの世界史 南アジア 」


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