第二次世界大戦10
出典: Jinkawiki
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2016年8月8日 (月) 13:55の版
目次 |
概要
1939年9月1日ドイツがポーランド侵攻を開始すると9月3日にフランス・イギリスがドイツに宣戦布告し、これが第二次世界大戦の始まりとなった。当初日本は不介入の方針をとっていたが、のちに太平洋戦争を引き起こすなど、この戦争に深入りしていくことになる。太平洋戦争を経て、戦争は終結に向かっていく。ドイツ降伏後1945年の8月6日の広島、同月9日の長崎への原子爆弾投下を経験し唯一の被爆国となった日本は昭和天皇の「英断」によりポツダム宣言を受諾し、約6年にわたる戦争は幕を閉じた。
開戦までの経緯
ドイツは第一次世界大戦終結後、自国の領土を没収され、多額の賠償金の支払いに追われていた。第一次世界大戦終結後から維持してきたヴェルサイユ・ワシントン体制と呼ばれる秩序の維持には、世界経済が好調で規模も拡大していること、平和維持の価値が広く認められていることが必要であった。しかし、1929年にアメリカから端を発した世界恐慌が発生すると、アメリカのニューディール政策により、輸出品に高い関税をかけられてしまうなど、ドイツの経済状況はさらに悪化し、大戦後の世界秩序の崩壊の兆しがみえ始めた。そんな中、ドイツは全体主義体制(ナチズム)を樹立し、ヒトラーが独裁政治によって軍事力を強化し、海外進出を狙うというファシズムという考えに走っていき、ヴェルサイユ体制の打破を唱え、1933年に国際連盟から脱退し、禁止されていた再武装に踏み切った。1937年にはヒトラーが東方に拡大政策をとることを宣言し、その翌年には、オーストリアを併合してさらにチェコスロヴァキアにも侵略の手を伸ばした。しかし、チェコスロバキアはフランス・イギリスの後ろ盾を期待し拒絶した。これの解決策として、イタリア仲介のもとチェコスロバキア不在で会議を開き(ミュンヘン会議)、これ以上戦争を起こすまいとしたイギリス・フランス両国はドイツの要求どおり、チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツに割譲することを決定した。ドイツはそれだけで満足せず、第一次世界大戦敗戦時にバルト海への出口を欲しがっていたポーランドにドイツ領土を分断するようにしてポーランド回廊という地域をとられていた。このポーランド回廊を横断する陸上交通路とその回廊の先端にある港、ダンチヒを返せと要求する。しかし、ポーランドがこれを拒否すると、ドイツ・ポーランド間の緊張状態が続き、戦争の危機となっていく。世界恐慌の際、同じく苦しい状況であったイタリアもムッソリーニがファシズムを展開し、先ほどのドイツの台頭に後押しされるような形でアルバニアを併合し、領地拡大政策に乗り出していく。ドイツとソ連は利害の一致から、独ソ不可侵条約を結び、これにより、ドイツはポーランド侵攻を開始する。イギリス・フランスはポーランドとの約束をもとにドイツに宣戦布告し、ヨーロッパ、ないしは世界は第二次世界大戦へと歩みを進めることとなった。
第二次世界大戦の経過
1939年9月1日ドイツ軍によるポーランド侵攻が始まったが、イギリス・フランス両軍はドイツに宣戦布告したものの、ドイツを積極的に攻めるという姿勢を見せなかった。ドイツ軍は2週間足らずでポーランド軍主力を撃破した。独ソ不可侵条約を結んでいたソ連も、ロシア民族保護の名目で突如ポーランドを侵攻しはじめ、東はソ連、西はドイツの支配体制が確立した。ドイツはその後も1940年4月にデンマークを占領、ノルウェーに侵攻を開始し、翌月にはオランダ、ベルギーに侵攻、6月にはフランスまでも降伏させてしまう。イギリスではノルウェーでの失敗の責任を取って、チェンバレン内閣が倒れ、対独強硬論者チャーチルがその後を継いだ。フランスを手中に収めたドイツは、中立の立場をとる国を除いてヨーロッパに残る最後の国となったイギリスとの戦いとなる。当時長期化する日中戦争に苦戦する日本もヨーロッパ情勢を知り、同盟を結ぶ。それがのちの日独伊三国軍事同盟である。しかし、イギリスに対してこれまで中立であったアメリカが武器の援助などを開始したためイギリスは強い後ろ盾を得ることとなった。イギリス本土をなかなか落とすことができなくなったドイツは、石油資源を狙い独ソ不可侵条約を一方的に破棄し、ソ連に侵攻しはじめたが一時はモスクワまで迫るものの猛烈な寒さとソ連の反撃にあい、苦戦を強いられることとなった。同じファシズム思想のムッソリーニが指導者であるイタリアもフランス陥落直前に参戦を表明していたが、ドイツの衰退と同時に衰退しイタリア本土にアメリカ・イギリス連合軍に上陸された。
第二次世界大戦中の日本
当初不介入の立場をとっていた日本だったが、日中戦争への軍需産業用の資材を求めるが、日本とその植民地で形成されていた「円ブロック」では到底足りず、欧米からの輸入に頼っている状況だった。第二次世界大戦の勃発により、日本はイギリスの対アジア政策の軟化を受け、「大東亜新秩序」の形成に乗り出すと、これに反発したアメリカとの対立が深まった。日本陸軍内では当時ヨーロッパ内で優勢であったドイツとの関係を強化したうえで「大東亜共栄圏」の建設をうたい欧米の植民地である南方への進出を主張する声が高まった。アメリカとの戦争回避への交渉と進める日本国内でも交渉の妥結を強く希望する近衛首相と交渉打ち切り・開戦をする主張する東条陸軍大臣が対立していたが、ついに陸軍が英領マレー半島、海軍がハワイ真珠湾に奇襲攻撃を仕掛け、アメリカ・イギリスに宣戦布告し太平洋戦争が開戦した。
第二次世界大戦の終焉
1941年に日本がアメリカ・イギリスに宣戦布告したのと同時にドイツ・イタリアも宣戦布告する。独ソ戦、また、第二次世界大戦最大ともいわれるスターリングラードの戦いにドイツが敗れると今まで優勢であったドイツがついに敗走に転じた。勢いを失ったドイツに対して連合軍の反撃が始まる。1944年6月には連合軍が西からドイツ軍を粉砕し、8月にはパリを解放させた。1945年5月にはソ連がドイツのベルリンを占領する。追い込まれたヒトラーが自殺すると、1945年5月にドイツは無条件降伏を受け入れた。イタリアも本土がアメリカ・イギリス軍に上陸されると、ムッソリーニは失脚する。1943年9月にイタリアも無条件降伏を受け入れることとなる。残った日本も1942年のミッドウェー海戦を機に失速し、サイパン島の陥落を機に絶対国防圏は崩れ、本土空襲も激しくなった。1945年の東京大空襲や沖縄本土決戦では、未曾有の被害を生み出してしまった。原爆投下後の1945年8月14日、ポツダム宣言の受諾を連合国側に通告し、同月15日正午に昭和天皇が自らラジオ放送を通じて全国民に戦争の終結を発表した。9月2日、東京湾内のアメリカ軍艦ミズーリ号上で日本政府および軍代表が降伏文書に署名して4年にわたる太平洋戦争は終了した。
参考文献
『詳説日本史』 編著者:笹山晴生、佐藤信、五味文彦、高埜利彦
『新詳日本史 地図 資料 年表』 編著者:浜島書店編集部
『グローバルワイド最新世界史図表新版初訂』 編著者:第一学習社編集部
『歴史年代ゴロ合わせ暗記』 参照日 8月4日 http://www12.plala.or.jp/rekisi/dainijisekaitaisen.html