日露戦争2

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== 日本の陸軍・海軍の動き == == 日本の陸軍・海軍の動き ==
'''陸軍''' '''陸軍'''
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陸軍は、最終的に四軍編制によって戦うこととなった。第一軍の先遣部隊は、1904年2月8日、中立宣言をしていた大韓帝国の仁川に上陸し、制圧後の2月23日に日韓議定書を締結した。その後、朝鮮半島を北上して次々とロシア軍を破り、遼陽を目指した。また、第二軍は5月に遼東半島に上陸、南山激戦を経て6月7月の戦いで勝利を収め、第一軍および6月に新たに編成された第四軍とともに遼陽に進撃した。他方、第三軍は、8月と10月の旅順要塞の総攻撃に失敗。そのため、軍は予備戦力の全てを投入し、翌年1月に旅順は多数の死傷者をもって陥落した。そして、1905年3月の奉天での会戦は日本軍25万人、ロシア軍32万人による日露戦争最大の戦闘となり、両軍死力を尽くした末に日本軍が辛勝した。この段階で兵員・物資・財政のすべての面で日本軍の戦力は限界に達し、参謀長の要請によって政府も講和条件の検討に入っていった。しかし、講和の条件を少しでも有利にしようと、ロシア領である樺太に7月に上陸し、守備隊だけが駐留していた全島を占領した。 陸軍は、最終的に四軍編制によって戦うこととなった。第一軍の先遣部隊は、1904年2月8日、中立宣言をしていた大韓帝国の仁川に上陸し、制圧後の2月23日に日韓議定書を締結した。その後、朝鮮半島を北上して次々とロシア軍を破り、遼陽を目指した。また、第二軍は5月に遼東半島に上陸、南山激戦を経て6月7月の戦いで勝利を収め、第一軍および6月に新たに編成された第四軍とともに遼陽に進撃した。他方、第三軍は、8月と10月の旅順要塞の総攻撃に失敗。そのため、軍は予備戦力の全てを投入し、翌年1月に旅順は多数の死傷者をもって陥落した。そして、1905年3月の奉天での会戦は日本軍25万人、ロシア軍32万人による日露戦争最大の戦闘となり、両軍死力を尽くした末に日本軍が辛勝した。この段階で兵員・物資・財政のすべての面で日本軍の戦力は限界に達し、参謀長の要請によって政府も講和条件の検討に入っていった。しかし、講和の条件を少しでも有利にしようと、ロシア領である樺太に7月に上陸し、守備隊だけが駐留していた全島を占領した。
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司令長官東郷平八郎に率いられた連合艦隊は、1904年2月8日の旅順港外での奇襲以後、黄海の制海権を確保して陸軍の遼東半島への輸送海路を維持するため、旅順のロシア艦隊の機動力を抑える作戦をとった。8月、旅順のロシア艦隊はウラジオストクへの移動を試んだが、日本の連合艦隊主力は10日の黄海海戦で打撃をあたえ、第二艦隊は14日の蔚山沖海戦で陽動作戦をとっていたウラジオストク艦隊を撃破した。そして、1905年5月27日・28日の日本海海戦において連合艦隊が勝利を収め、壊滅的な被害を受けたロシアは、戦争終結の方針を決定した。 司令長官東郷平八郎に率いられた連合艦隊は、1904年2月8日の旅順港外での奇襲以後、黄海の制海権を確保して陸軍の遼東半島への輸送海路を維持するため、旅順のロシア艦隊の機動力を抑える作戦をとった。8月、旅順のロシア艦隊はウラジオストクへの移動を試んだが、日本の連合艦隊主力は10日の黄海海戦で打撃をあたえ、第二艦隊は14日の蔚山沖海戦で陽動作戦をとっていたウラジオストク艦隊を撃破した。そして、1905年5月27日・28日の日本海海戦において連合艦隊が勝利を収め、壊滅的な被害を受けたロシアは、戦争終結の方針を決定した。

2018年1月15日 (月) 23:14の版

概要

1904年2月から翌年9月にかけて行われた日本とロシアによる戦争。当時、日本はイギリス・アメリカの支配下にあったが、その支持の下で強硬政策をとり開戦した。この戦争の意義については、ロシアの大韓帝国への進出が日本へ及ぶことを防ぐ自衛のための予防戦争であったという見方と、満州と朝鮮の支配をめぐって戦われた帝国主義国間の戦争であったという見方の二つがある。戦争中日本は数々の戦いで勝利を収めたが、軍事的・経済的な面で徐々に厳しくなり、またロシアでは、革命運動が激しくなったことでお互いに早期戦争終結を望むようになった。こうして両国は、1905年アメリカのポーツマスでの講和条約を結び、日露戦争は終結した。


宣戦布告

日本の陸海空軍は、1903年12月に開戦準備に着手した。戦争を行う上で、日本は国力と軍事装備において劣っていたため、それを補うために援軍が到着しない前にロシア軍に大打撃を与えて外積を獲得し、戦況が有利な段階でイギリスやアメリカに対し講和幹旋を依頼して早期に戦争を終結させようという作戦をとった。こうした要請にこたえるため、奇襲攻撃によって緒戦で可能な限りロシア軍の戦闘能力を奪う作戦がたてられ、1904年2月6日に国交断絶を通告すると、宣戦布告に先立つ2月8日、陸軍先遣部隊が仁川から韓国への上陸を図るとともに、連合艦隊による旅順港外のロシア艦隊への夜襲作戦が決行された。これらを受けてロシアは9日に、日本は10日に宣戦布告した。


日本の陸軍・海軍の動き

陸軍

陸軍は、最終的に四軍編制によって戦うこととなった。第一軍の先遣部隊は、1904年2月8日、中立宣言をしていた大韓帝国の仁川に上陸し、制圧後の2月23日に日韓議定書を締結した。その後、朝鮮半島を北上して次々とロシア軍を破り、遼陽を目指した。また、第二軍は5月に遼東半島に上陸、南山激戦を経て6月7月の戦いで勝利を収め、第一軍および6月に新たに編成された第四軍とともに遼陽に進撃した。他方、第三軍は、8月と10月の旅順要塞の総攻撃に失敗。そのため、軍は予備戦力の全てを投入し、翌年1月に旅順は多数の死傷者をもって陥落した。そして、1905年3月の奉天での会戦は日本軍25万人、ロシア軍32万人による日露戦争最大の戦闘となり、両軍死力を尽くした末に日本軍が辛勝した。この段階で兵員・物資・財政のすべての面で日本軍の戦力は限界に達し、参謀長の要請によって政府も講和条件の検討に入っていった。しかし、講和の条件を少しでも有利にしようと、ロシア領である樺太に7月に上陸し、守備隊だけが駐留していた全島を占領した。

海軍

司令長官東郷平八郎に率いられた連合艦隊は、1904年2月8日の旅順港外での奇襲以後、黄海の制海権を確保して陸軍の遼東半島への輸送海路を維持するため、旅順のロシア艦隊の機動力を抑える作戦をとった。8月、旅順のロシア艦隊はウラジオストクへの移動を試んだが、日本の連合艦隊主力は10日の黄海海戦で打撃をあたえ、第二艦隊は14日の蔚山沖海戦で陽動作戦をとっていたウラジオストク艦隊を撃破した。そして、1905年5月27日・28日の日本海海戦において連合艦隊が勝利を収め、壊滅的な被害を受けたロシアは、戦争終結の方針を決定した。


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