シオニズム運動

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シオニズム運動


概要

 ユダヤ人の独立国家を作ることを目指した運動

派閥

運動に際して、異なる主張をする二つの派閥が対立した。 プラクティカル派…パレスティナに国家を築くべきであると主張する派閥 ポリティカル派…場所にこだわらず早く独立国家を気づくべきだと主張する派閥。 1905年の第7回シオニスト会議でプラクティカル派の主張が認められた。

背景

ユダヤ人は遊牧民族であり、アラビア半島で遊牧を営み、散り散りに生活をしていた。旧約聖書によると、民族の長アブラハムが神の声を聞いて、現在のパレスティナに導かれ、この地をユダヤ人に与えることを約束したという。  そして、パレスティナにユダヤ人の国家を建国し首都をエルサレムに建てるも、内紛や他民族の侵略を受け、奴隷として他国に連行されるなどの苦難を受けていた。  紀元前141年再び独立国を建国したが、紀元前63年、ローマ帝国に属州として編入されてしまった。

 紀元前4年頃、イエス・キリストが誕生し、布教を開始する。下層民を中心に絶大な支持を得、ユダヤ人は彼がローマからの支配から救ってくれる救世主だと期待した。

しかし、キリスト自身はこれを否定。 これに失望したユダヤ人は、偽の救世主(ユダヤ教に危機には救世主が現れるといったおしえがある)、異端として迫害し、ローマ側はイエスを反乱を起こしうる、危険分子と判断し、双方から迫害され、処刑に科される。

その後、西暦44年からユダヤ人はローマに反乱を起こし、二度にわたって戦争を仕掛けるも鎮圧され、その折にローマ帝国は首都エルサレムを陥落し、更なる反乱を起こさぬように、ユダヤ人をパレスティナから強制的に退去させ、土地を失くしたユダヤ人たちはローマ帝国内に離散していった。

 その後、ローマ帝国内ではキリスト教を国教とする動きが起こり、ユダヤ人は「イエス」を殺した民として烙印を押され、忌み嫌われるようになった。

その上、土地を所有していない彼らが生きていくには高利貸し、質屋などで生計を立てなければならなかったが、それが更に反感を買う原因となってしまった(キリスト教の教えでは、金は汚いものとされていたため)。

その後、18世紀にフランス革命や、アメリカ独立戦争を契機に、庶民を自由や平等が叫ばれるようになり、ユダヤ人への差別は薄まっていき、信仰の自由が認められ、政治に参加できる市民権を獲得した。フランスに住むのは皆フランス人とされ、ユダヤ人もまたユダヤ系フランス人として、生きていくことができるようになった。また、職業の選択もできるようになり、学問などに精をだす人々が続出していき、経済状態も後押ししてか、優秀な功績を残していった。

しかし、19世紀に領土や資源を得るために植民活動や、戦争が多く起こる中、国内での一体感が高まり、国民主義や民族主義が発展してゆき、ユダヤ人に対する妬みもあってか再び排除する動きが起こってしまう。そのような中、1894年フランスでフランス系ユダヤ人であり軍に属するドレフュスにドイツのスパイ容疑がかけられ、地位を剥奪されてしまい、投獄されてしまう。後に真犯人が他にいることが分かったが、軍部はすぐにはドレフュスを釈放せず、釈放までに12年までかかってしまった。

この原因はドレフュスがユダヤ系フランス人だったという事に危機感を抱いたユダヤ系ハンガリー人のヘルツルは「ユダヤ人への迫害は、同化主義(多数民族が少数民族を尊重するという考え)や人道主義(価値観の異なる相手と協調するという考え)では根本的解決にはならず、その解決の為には、国土を得て、国家を建設し、列国から承認されなければならない」と提唱をし、1897年に第一回シオニスト運動を開催した。


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