ナショナリズム3
出典: Jinkawiki
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==ソ連とナショナリズム== | ==ソ連とナショナリズム== | ||
1985年春、ゴルバチョフ政権成立後、およそ六年半に及んだソビエト体制のペレストロイカは、その主導者たるゴルバチョフの退場とともに、ソビエト体制そのものの崩壊をもたらした。この中でペレストロイカの一環としてのソビエト連邦体制の再構築問題、広く民族問題一般は、政治、経済、社会改革などペレストロイカの個別的側面というよりもむしろそれらを糾合する不可分の、体制そのものにかかわる中心的要素としての意義を潜在的に持っていたといえる。連邦体制再構築問題として、ソ連の政治経済体制再編の中心的課題として浮上するのは、政権初期における経済政策の失敗の影響が深刻化し、敬座愛システムとしての連邦制度が実質的に崩壊に直面し始めた1990年になってからのこと。ソビエト政治経済体制のペレストロイカの中でこの問題が浮上した結果として独立国家共同体が結成されるまでの経緯に関する時期区分を表すと、第一に1986年4月のチェルノブイリ原発事故を契機としてペレストロイカの重要な要素として現れ始めたグラスノスチの拡大の下で、歴史的なソビエト民族政策をめぐる全般的な意義申し立てが顕在化し、これが1988年6月のソ連邦共産党第19回全国協議会を経て同年12月の憲法修正によるソビエト制度改革と、それに基づく1989年春のソ連邦人民代議員大会の総選挙に至る時期である。この時期すでに旧来の連邦制度に対する批判はバルト三国やグルジヤなどによって提起されていたが、その再編は新しい国家権力機関としての人民代議員大会と新設の最高会議に先送りされた。第二の時期は八九年春に成立したソ連邦人民代議員大会とそれによって選出された新設の最高会議の下で政治改革の第二段階への移行が東欧革命の衝撃の下で日程に上り、党からソビエトへの政治権力の移行が九〇年はじめの大統領制度のの導入、同年春の地方ソビエトの選挙となって具体化する時期である。この時期において連邦議会及び政府は、各共和国の主権要求に旧来の連邦国家体制、実質的には単一の中央集権国家体制を緩和し、その連邦制度の虚構性を是正する動きで対処しようとするが、結果として一九二二年の連邦条約にかわる新連邦条約の締結による体制再構築を余儀なくされるにいたる。第三の時期は連邦政府と各共和国政府、九〇年春の選挙によって成立したロシア共和国政府との間で、経済市場移行を中心とする対立がふぇきかし、その中で連邦政府と書く共和国政府の新連邦条約締結をめぐる交渉が、連邦体制の維持をめぐり、実質的な連邦国家の樹立か、連邦国家的要素をもつ国家連合かといったかたちでの対立となって浮上し始める時期である。この中で連邦は民主的基盤の上に権力を強化し始めた構成共和国側の要求に妥協を余儀なくされ、最終的に連邦は九一年の8月事件によって連邦再編における主導権を完全に喪失するに至る。第4の時期は、連邦政府権力の喪失の結果、旧来の連邦制から新たな主権共和国の同盟関係構築への移行期の暫定政治体制の下で、さらに各民族共和国の連邦からの離脱とwン心的傾向が強まり、ウクライナ共和国の独立宣言が連邦の崩壊を加速化し、新連邦条約による再編の構想が放棄され、連邦の消滅と独立国家共同体の結成に至る時期である。 | 1985年春、ゴルバチョフ政権成立後、およそ六年半に及んだソビエト体制のペレストロイカは、その主導者たるゴルバチョフの退場とともに、ソビエト体制そのものの崩壊をもたらした。この中でペレストロイカの一環としてのソビエト連邦体制の再構築問題、広く民族問題一般は、政治、経済、社会改革などペレストロイカの個別的側面というよりもむしろそれらを糾合する不可分の、体制そのものにかかわる中心的要素としての意義を潜在的に持っていたといえる。連邦体制再構築問題として、ソ連の政治経済体制再編の中心的課題として浮上するのは、政権初期における経済政策の失敗の影響が深刻化し、敬座愛システムとしての連邦制度が実質的に崩壊に直面し始めた1990年になってからのこと。ソビエト政治経済体制のペレストロイカの中でこの問題が浮上した結果として独立国家共同体が結成されるまでの経緯に関する時期区分を表すと、第一に1986年4月のチェルノブイリ原発事故を契機としてペレストロイカの重要な要素として現れ始めたグラスノスチの拡大の下で、歴史的なソビエト民族政策をめぐる全般的な意義申し立てが顕在化し、これが1988年6月のソ連邦共産党第19回全国協議会を経て同年12月の憲法修正によるソビエト制度改革と、それに基づく1989年春のソ連邦人民代議員大会の総選挙に至る時期である。この時期すでに旧来の連邦制度に対する批判はバルト三国やグルジヤなどによって提起されていたが、その再編は新しい国家権力機関としての人民代議員大会と新設の最高会議に先送りされた。第二の時期は八九年春に成立したソ連邦人民代議員大会とそれによって選出された新設の最高会議の下で政治改革の第二段階への移行が東欧革命の衝撃の下で日程に上り、党からソビエトへの政治権力の移行が九〇年はじめの大統領制度のの導入、同年春の地方ソビエトの選挙となって具体化する時期である。この時期において連邦議会及び政府は、各共和国の主権要求に旧来の連邦国家体制、実質的には単一の中央集権国家体制を緩和し、その連邦制度の虚構性を是正する動きで対処しようとするが、結果として一九二二年の連邦条約にかわる新連邦条約の締結による体制再構築を余儀なくされるにいたる。第三の時期は連邦政府と各共和国政府、九〇年春の選挙によって成立したロシア共和国政府との間で、経済市場移行を中心とする対立がふぇきかし、その中で連邦政府と書く共和国政府の新連邦条約締結をめぐる交渉が、連邦体制の維持をめぐり、実質的な連邦国家の樹立か、連邦国家的要素をもつ国家連合かといったかたちでの対立となって浮上し始める時期である。この中で連邦は民主的基盤の上に権力を強化し始めた構成共和国側の要求に妥協を余儀なくされ、最終的に連邦は九一年の8月事件によって連邦再編における主導権を完全に喪失するに至る。第4の時期は、連邦政府権力の喪失の結果、旧来の連邦制から新たな主権共和国の同盟関係構築への移行期の暫定政治体制の下で、さらに各民族共和国の連邦からの離脱とwン心的傾向が強まり、ウクライナ共和国の独立宣言が連邦の崩壊を加速化し、新連邦条約による再編の構想が放棄され、連邦の消滅と独立国家共同体の結成に至る時期である。 | ||
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+ | ----参考文献---- | ||
+ | 「現代のナショナリズム」 西村文夫 渡辺慶子 | ||
+ | 「ナショナリズム」 姜尚中 | ||
+ | 「ナショナリズム」 E.ケドゥーリー |
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目次 |
ナショナリズム
ナショナリズムは19世紀初頭にヨーロッパで創りだされた教義である。固有の政府を持とうとする、独自の人間単位集団を決定するために、また国家における正当な権力行使のために、さらには国際社会の正しい組織づくりのために、一つの基準を供給するもの。人類は本来的にもろもろの民族に分かれており、諸民族はそれと確認できる一定の特徴において選別されうるもの。したがって唯一の正当な統治形態は民族の自決だと考えられている。このような主張が人々に受け入られるようになり、いまや自明の理と考えられている。 アーネスト・ゲルナーの定義としては、政治的な単位と民族的な単位あるいは文化的な単位が一致しなければならないと主張する政治的原理とみなしている。
ナショナリズムの歴史
構造的な要因をゲルナーは農耕社会から産業社会への移行にともなう文化の役割とその位置の変化によって説明している。ナショナリズムが「ゲマインシャフトの言葉」を話そうとも、それは実際にはゲゼルシャフトに基礎をおいているのであり、その意味でナショナリズムはきわめて新しい現象。この限りでナショナリズムは政治的な単位と文化的な単位の一致をネイションの「伝統」とみなす政治的原理であるといえる。この意味でネイションが社会的存在であるのは、それが近代的な領域国家としての「ネイション-ステイト」と関連するからであり、ネイションとナショナリズムは「ネイション-ステイト」と関連していなければほとんど無意味であるといえる。
ドイツとナショナリズム
ドイツ人は中央と東欧に住む多くの集団の一つにすぎなかた。大体においてオスマン帝国の支配下にあり、19世紀にはいってもこの地域には言語や慣習や宗教の異なる多数の地域社会が隣り合って暮らしていた。歴史の様々な出来事がその地域に複雑な社会構造を残していた。これらの集団のあるものは一時は征服者であり、支配者であったが、次の時には彼らの支配は打倒され今度は新しい征服者の臣民となった。これらの集団のうちで最も重要なのがドイツ人とユダヤ人であった。これらの田尾宇な地域社会はすべて、互いに隣り合って生活し、彼らの身分に伴う必要不可欠な社会的経済的機能を遂行しながら、同一性を維持していた。たとえば、ハンガリーのある地方では、地主はマジャール人で、都市の中産階級はドイツ語を話す人々であり、農民たちは土着のクロアチア人やスロヴァキア人であった。かくしてこれらの集団は地域的に集中しておらず、ある場合には一つ以上の国家に分散していた。これがとりわけドイツ人やポーランド人やユダヤ人たちの状況であった。ポーランド人もマジャール人も彼らが独立していた時にはナショナリズムの教義が理解していたような意味でのナショナルな国家ではなかった。郷紳階級出身のポーランド人のナショナリストたちに蜂起の際に完全な無関心さを示し、現在に至るまで一貫していた。
ソ連とナショナリズム
1985年春、ゴルバチョフ政権成立後、およそ六年半に及んだソビエト体制のペレストロイカは、その主導者たるゴルバチョフの退場とともに、ソビエト体制そのものの崩壊をもたらした。この中でペレストロイカの一環としてのソビエト連邦体制の再構築問題、広く民族問題一般は、政治、経済、社会改革などペレストロイカの個別的側面というよりもむしろそれらを糾合する不可分の、体制そのものにかかわる中心的要素としての意義を潜在的に持っていたといえる。連邦体制再構築問題として、ソ連の政治経済体制再編の中心的課題として浮上するのは、政権初期における経済政策の失敗の影響が深刻化し、敬座愛システムとしての連邦制度が実質的に崩壊に直面し始めた1990年になってからのこと。ソビエト政治経済体制のペレストロイカの中でこの問題が浮上した結果として独立国家共同体が結成されるまでの経緯に関する時期区分を表すと、第一に1986年4月のチェルノブイリ原発事故を契機としてペレストロイカの重要な要素として現れ始めたグラスノスチの拡大の下で、歴史的なソビエト民族政策をめぐる全般的な意義申し立てが顕在化し、これが1988年6月のソ連邦共産党第19回全国協議会を経て同年12月の憲法修正によるソビエト制度改革と、それに基づく1989年春のソ連邦人民代議員大会の総選挙に至る時期である。この時期すでに旧来の連邦制度に対する批判はバルト三国やグルジヤなどによって提起されていたが、その再編は新しい国家権力機関としての人民代議員大会と新設の最高会議に先送りされた。第二の時期は八九年春に成立したソ連邦人民代議員大会とそれによって選出された新設の最高会議の下で政治改革の第二段階への移行が東欧革命の衝撃の下で日程に上り、党からソビエトへの政治権力の移行が九〇年はじめの大統領制度のの導入、同年春の地方ソビエトの選挙となって具体化する時期である。この時期において連邦議会及び政府は、各共和国の主権要求に旧来の連邦国家体制、実質的には単一の中央集権国家体制を緩和し、その連邦制度の虚構性を是正する動きで対処しようとするが、結果として一九二二年の連邦条約にかわる新連邦条約の締結による体制再構築を余儀なくされるにいたる。第三の時期は連邦政府と各共和国政府、九〇年春の選挙によって成立したロシア共和国政府との間で、経済市場移行を中心とする対立がふぇきかし、その中で連邦政府と書く共和国政府の新連邦条約締結をめぐる交渉が、連邦体制の維持をめぐり、実質的な連邦国家の樹立か、連邦国家的要素をもつ国家連合かといったかたちでの対立となって浮上し始める時期である。この中で連邦は民主的基盤の上に権力を強化し始めた構成共和国側の要求に妥協を余儀なくされ、最終的に連邦は九一年の8月事件によって連邦再編における主導権を完全に喪失するに至る。第4の時期は、連邦政府権力の喪失の結果、旧来の連邦制から新たな主権共和国の同盟関係構築への移行期の暫定政治体制の下で、さらに各民族共和国の連邦からの離脱とwン心的傾向が強まり、ウクライナ共和国の独立宣言が連邦の崩壊を加速化し、新連邦条約による再編の構想が放棄され、連邦の消滅と独立国家共同体の結成に至る時期である。
参考文献----
「現代のナショナリズム」 西村文夫 渡辺慶子 「ナショナリズム」 姜尚中 「ナショナリズム」 E.ケドゥーリー