コソボ紛争4
出典: Jinkawiki
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承認:110か国・地域 (アメリカ,イギリス,フランス,ドイツ,日本,台湾,クロアチア,ハンガリーなど) | 承認:110か国・地域 (アメリカ,イギリス,フランス,ドイツ,日本,台湾,クロアチア,ハンガリーなど) | ||
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- | == セルビアとコソボ== | + | == セルビアとコソボの今後== |
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+ | 2008年2月、コソボはセルビアからの独立を宣言したが、セルビアはもちろんこれを認めなかった。 | ||
+ | その一方で、南部地域の貧困などの諸問題から、セルビア国内で次第にEU加盟論が台頭した。これがバルカン半島西部に勢力を拡大したいEUの思惑と一致し、2009年にセルビアはEU加盟を申請した。しかし、EU側はその条件として、コソボとの関係改善を提示した。 |
2018年1月26日 (金) 18:30の版
目次 |
コソボについて
面積:10,908㎢
人口:約186万人(2014年)
通貨:ユーロ
民族:アルバニア人(約92%),セルビア人(約5%)など(2016年)
宗教:イスラーム教(アルバニア人),ギリシア正教(セルビア人)など
紛争の背景
コソボは14世紀まで繁栄した中世セルビア王国の政治・宗教(ギリシア正教)の中心地である。しかし14世紀以降この地を支配したオスマン帝国の下でイスラーム教徒のアルバニア人が入植。1939年のイタリアによる隣国アルバニア併合がこれを加速した。第二次世界大戦後のチトー体制下で、この地はセルビア共和国内の「コソボ自治州」であり、アルバニア人は広大な自治を保障された。しかし、連邦崩壊前後にミロシェビッチ・セルビア共和国大統領(新ユーゴスラビア連邦大統領)がセルビア民族主義政策を強化したため、アルバニア人が多数派を占めるコソボ地域ではセルビア人による抑圧がエスカレートした。
コソボ独立に対する承認・不承認の国や地域
承認:110か国・地域 (アメリカ,イギリス,フランス,ドイツ,日本,台湾,クロアチア,ハンガリーなど)
不承認:85か国以上の国・地域 (セルビア,ロシア,中国,スペイン,キプロス,スロバキア,ギリシャ,EUなど)
セルビアとコソボの今後
2008年2月、コソボはセルビアからの独立を宣言したが、セルビアはもちろんこれを認めなかった。 その一方で、南部地域の貧困などの諸問題から、セルビア国内で次第にEU加盟論が台頭した。これがバルカン半島西部に勢力を拡大したいEUの思惑と一致し、2009年にセルビアはEU加盟を申請した。しかし、EU側はその条件として、コソボとの関係改善を提示した。