ベトナム戦争44
出典: Jinkawiki
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ベトナムの歴史 今井昭夫(2008)明石書店 | ベトナムの歴史 今井昭夫(2008)明石書店 | ||
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ベトナム 戦争と平和 石川文洋 (2005)岩波新書 | ベトナム 戦争と平和 石川文洋 (2005)岩波新書 | ||
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諸説日本史 笹山晴夫ほか10名 (2016年)山川出版社 | 諸説日本史 笹山晴夫ほか10名 (2016年)山川出版社 |
2018年1月26日 (金) 18:25の版
1概要 ベトナム戦争は、インドシナ戦争後に南北に分裂したベトナムで発生した戦争の総称である。第二次インドシナ戦争ともいわれる。ベトナム戦争はアメリカの軍事規模、兵士・民間人の死傷者数やその他あらゆる面で、朝鮮戦争、湾岸戦争、イラク戦争など第二次世界大戦後に起こった戦争の中で最大規模の戦争である。アメリカは221万人の若者を徴兵し、陸海空軍合わせて延べ800万人の兵士を動員した。ベトナム戦争の死者は民間人200万人、解放軍兵士(北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線)110万人、アメリカ軍兵士5万8200人である。
2要因 ベトナムは1883年から全土がフランスの植民地支配下におかれていた。1945年3月、日本軍はフランス軍を武将解除、フエにバオ・ダイ皇帝を元首としたベトナム帝国を樹立させた。日本の敗戦後、ベトナム再支配をもくろむフランスはホーチミン市にコーチシナ自治共和国を建国させ、46年12月ベトナム独立同盟軍との間で戦闘が開始された。53年11月、フランス軍はラオス国境に近いディエンビエンフーに大陣地を構築し、ベトミン軍をおびき寄せ、爆撃と砲撃で壊滅させる作戦をたてた。しかし補給路が寸断され陣地は孤立し、ベトミン軍の砲撃などでフランス軍の死傷者が増大し、54年5月インドシナ休戦協定によりフランス軍は降伏・撤退した。しかし、ベトナムは南北分断のもとでなおも内戦が続き、1965年からは南ベトナム政府を支援するアメリカが北ベトナムへの爆撃(北爆)を含む大規模な軍事介入を始め、北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線は中国・ソ連の援助を得て抗戦した。
3枯葉剤
ベトナム戦争中にアメリカ軍は解放軍の拠点となる森林を見通しよくするためと、米や穀物、野菜など食料生産地に打撃を与えるため、枯葉剤を散布した。この枯葉剤は専門家によると、1961年からアメリカ軍が撤退する71年までの10年間に7200万リットルが散布されたが、75年の戦争終結までサイゴン政府軍によって撒かれた量を合わせると8000万リットルを超えるそうだ。枯葉剤には葉を枯らすエージェントオレンジやエージェントホワイト、木の根を枯らすエージェントブルーなどの数種類ある。先天性異常など人体に悪影響を及ぼすエージェントオレンジにはダイオキシンが含まれている。わずか1グラムでサル1400万匹を致死させるという枯葉剤がベトナム戦争では撒布された。
不発弾 アメリカ軍がベトナムで使用した葬爆薬弾は1127万トンで、これはアメリカが第二次世界大戦で使用した量の2倍弱、沖縄戦で使用した20万トンの56倍になる。ベトナムでは戦争終結以降、40年間で不発弾により4万2000人以上が命を落とし、約6万2000人が負傷した。平均すると毎年1500人以上が不発弾によって亡くなり、2300人近くが負傷している。また、犠牲者の多くは農村の人々であり、特に子どもの被害も少なくなく、10人に3人は子どもが被害者である。
参考
ベトナムの歴史 今井昭夫(2008)明石書店 ベトナム 戦争と平和 石川文洋 (2005)岩波新書 諸説日本史 笹山晴夫ほか10名 (2016年)山川出版社