東日本大震災5
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- | 2011年(平成23年)3月11日午後14時46分に三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震が発生した。日本における観測史上最大の地震であった。また今まで起きた地震で世界で4番目の規模であった。 最大震度は7であり、東京でも震度5強を観測した。地震によって大津波、福島第一原発事故、液状化現象、地盤沈下、ダムの決壊などが発生。政府は4月1日の持ち回り会議で名称を東日本大震災と命名。 | ||
- | 1 概要 | ||
- | 2011年(平成23)3月11日午後2時46分ごろに発生した東北地方太平洋沖地震によってもたらされた大災害。地震の規模はM(マグニチュード)9.0で気象庁観測史上最大の地震となった。宮城県北部で震度7を記録したほか、岩手、宮城、福島、茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉の各県で震度6強から6弱を観測した。 | ||
- | この地震により発生した大津波が東北地方から関東地方の太平洋岸に襲来し、各地に甚大な損害をもたらした。この災害による死者は1万3000人以上、行方不明者は1万4500人以上、6万7000以上の建物が全半壊(2011年4月12日時点)しており、阪神・淡路大震災を上回る戦後最大の災害となった。首都圏でも、JR各線をはじめ、鉄道が長時間停止する事態に陥った。 | ||
- | 地震発生後、福島第一原子力発電所(福島県双葉郡大熊町・双葉町)において、放射性物質が漏出する重大事故が発生した。6基の原子炉のうち、1~4号機の電源が津波の浸水により故障し、さらに原子炉建屋内で水素爆発がおきるなど、炉心溶融の危険性が生じ、アメリカのスリーマイル島原子力発電所事故(1979)を上回り、旧ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所事故(1986)に比べられる大事故となった。 政府は原子力災害特別措置法に基づき、「原子力緊急事態」を宣言、付近住民の避難が行われた。また、福島原発の停止などによって東京電力の供給量が不足し、計画停電(突発的な停電を防ぐため、地域と時間を限定して行う停電)が実施された。 | ||
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- | 2 海外の反応 | ||
- | ■韓国をはじめとする諸外国からの迅速な支援 | ||
- | 震災後3日間の間に,6つの国(韓国,米国,シンガポール,中国,スイス,ドイツ)が被災地に入った。その中でも,震災翌日にいち早く消防防災庁職員などで構成されるレスキューチームを派遣したのは,隣国の韓国であった。 3月12日に救助犬チーム(人員5名と救助犬2匹),さらに3月14日には追加支援隊員102名が派遣され,総勢107名という大規模な救助隊が宮城県仙台市などで活動。警察とともに,救助犬や機器類を利用して,被害が大きかった宮城野区蒲生地区などで行方不明者の救助・捜索活動を展開した。 また,中国は3月14日より岩手県大船渡市で,台湾は3月16日より,モンゴルは17日より, 宮城県名取市,岩沼市等でそれぞれ支援チームの活動を開始した。 | ||
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- | ■総勢150名以上のレスキュー隊員を派遣したロシア | ||
- | ロシア政府は,国内外での豊富な経験を有する非常事態省のレスキューチームを日本に派遣した。 3月16日から第1隊(75名)が宮城県石巻市で活動を開始。翌17日には第2隊の79名も合流し,総勢150名以上の規模で主に行方不明者の救助・捜索活動に取り組んだ。 熟練した隊員たちは危険な倒壊家屋にも臆することなく入り,担当区域を越えて熱心に捜索活動を展開。石巻市での任務終了後,第1隊を率いた隊長は「日本人は偉大な民族だ。このような災害に遭っても,泣き叫ぶこともせず,略奪もせず,人を責めることもせず,黙々と(復旧)作業を行っている。日本人は,今回の災害も必ずや乗り越えるに違いない。」と述べ,日本国民に力強いエールを送った。 | ||
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- | ■首相が被災地を訪問した豪州 | ||
- | 豪州政府は72名の消防隊員と救助犬2頭からなる緊急援助チームを派遣した。 同チームは,3月16日~19日の日程で,巨大津波によって壊滅的被害を受けた宮城県南三陸町で捜索・救助活動を展開。撤退時には,同県登米市(キャンプ地)に医療品,テント,燃料,水・食料等を寄贈した。 また,豪州軍が保有する輸送機C17全4機のうち, 3機が輸送支援のために投入された。緊急援助チームを豪州から日本へ輸送した1機は,その後も約10日間にわたり自衛隊の要員・物資等の輸送支援で活躍。残りの2機は,福島第一原発の冷却に用いる特殊ポンプを豪州から輸送した。 4月23日には松本外務大臣とともに,ギラード・オーストラリア首相が南三陸町を訪問し(外国首脳の被災地訪問は初),緊急援助チームのマクニール隊長も同行した。被災者との交流の後,ギラード首相は「日本人は不屈で勇敢」と語り,支援物資のほか被災地の子どもたちにコアラとカンガルーのぬいぐるみをプレゼントした。また,子どもたちからはお礼としてギラード首相に折り鶴が贈られた。 | ||
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- | ■南アフリカの「Rescue South Africa」 | ||
- | 南アフリカ政府が派遣した総勢45名の「Rescue South Africa(RSA)」は,2010年1月のハイチ地震でも活躍した実績があるNGO団体である。 車両,放射能防護服,瓦礫を持ち上げる機械や特殊カメラ等の装備も充実し,隊員は共に活動した日本の警察が感心するほど規律正しく,他国チームにも快く保有機材を使用させるなど協調性も高いプロフェッショナル集団であった。RSAは宮城県岩沼市,名取市,石巻市,多賀城市において,救助・捜索および瓦礫の撤去作業などに従事。外国救助隊で唯一,持ち込んだゴムボートで水上と水中での捜索活動も行った。帰国直前には,最初の活動地である岩沼市の市民会館に市長と避難している住民を慰問し,励ましのメッセージ入りの2010年ワールドカップ公式球を市に贈呈した。RSA隊員達の真摯で誠実な姿勢は,一緒に活動する日本の警察や消防,他国の支援チーム,さらに被災地の人々にも深い感謝の気持ちを呼び起こすものであった。 | ||
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- | ■親日国トルコの海外支援チーム | ||
- | 南アフリカのRSAと前後して同じ宮城県利府町を拠点に活動していたのが,トルコの支援チームだった。 先に現地入りしていた南アフリカチームが到着直後のトルコチームに熱湯を差し入れたところ,トルコの隊員が翌日にお茶のお返しをするなど,ベースキャンプでは両国隊員の心温まる交流も見られた。トルコの支援チームは22名の救助隊員と5名の医療関係者など合計32名から構成され,貨物専用機で機材(作業用車両3台含)を日本へ運び込み,3月20日に現地入りし,4月8日に撤収するまで宮城県多賀城市,石巻市雄勝町および七ヶ浜町にて,主に行方不明者の捜索活動に従事し,約3週間もの長期にわたり活動を行った。 ちなみにトルコは伝統的な親日国として知られており,1999年のトルコ北西部地震で最も迅速的かつ包括的に支援を行った国の1つが日本であり,トルコはその際の恩返しという気持ちで活動してくれた。 | ||
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- | ■初めて海外に支援隊を派遣したインド | ||
- | インド政府は国家災害対応部隊(NDRF)46名を派遣した。 NDRFはスマトラ沖大地震・インド洋津波被害を受けて2005年に創設された組織で,今回の日本での活動が初の海外派遣となった。NDRFは,3月29日から4月5日まで津波被害で町の中心部が壊滅した宮城県女川町で主に行方不明者の捜索活動に従事した。 被災者の要望によく耳を傾け,粘り強く捜索活動に取り組むNDRF隊員の働きぶりに,多くの被災者から賛辞と感謝の声が聞かれた。なお, 5月12日には,同じくスマトラ沖地震で多大な被害を蒙ったスリランカの復旧支援チーム(15名)が来日した。 | ||
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- | ■最初に医療支援チームを派遣したイスラエル | ||
- | 今回の震災で外国政府として初めて医療支援チームを派遣したのがイスラエルである。 3月27日に来日したイスラエル医療支援チームは,医師14名(内科,小児科,産婦人科など),看護師7名,その他技師,通訳など53名から構成され,多大な津波被害を受けた宮城県南三陸町に充実した検査機器を持ち込んでクリニックを開設。3月29日より,日本人医師,看護師とも緊密に連携しながら被災者の診療や血液検査,エックス線検査等を行った。クリニックでの診療以外にも,妊婦や赤ちゃんの往診,周辺の避難所の巡回なども行い,隊員たちは医療活動を通して子どもを含む被災者とも積極的に交流した。 また,4月4日には菊田外務大臣政務官が現地調査に訪れ,意見交換を行った。活動最終日には,被災者から感謝の気持ちを込めて医療支援チームの一人ひとりに折り鶴が贈られた。 また,イスラエルから持ちこんだ医療機材は,南三陸町の医療復興のために寄贈された。なお,イスラエルの医療支援チームの帰国後,ヨルダンとタイが福島県に医療支援チームを派遣した。 |