満州事変4

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日露戦争後、日本は資源の豊富な満州を自分たちの生命線とみなすようになり、東方会議で、満州を中国本土から分離する強硬方針を決定した。

関東軍は、当時満州を支配していた張作霖を爆殺し、混乱に乗じて日本軍を動かして満州を占領しようと企てた。しかし、張作霖の跡を継いだ息子の張学良が、蒋介石の率いる中国国民政府による統一を受け入れ、その配下に入ると宣言したために失敗に終わった。

張学良は、鉄道の敷設や貨幣の統一など中国東北地方の建設をすすめ、日本の満州支配政策に対抗した。日本は、国民政府の支持を受けた張学良が強大化するのを恐れ、彼に対して圧力をかけると同時に、極秘に満州占領計画を進めた。

そしてとうとう1931年9月18日の夜、関東軍は、柳条湖付近で南満州鉄道の線路を爆破し、それを中国東北軍の仕業であるとして、近くにあった中国軍の兵営を襲撃した。続いて戦闘を拡大し、鉄道沿線の都市を次々と攻略していった。現地の中国軍は抵抗したが、国民政府は「安内攘外」、つまり国内を統一し強固にしたのち日本と戦うことを方針とし、加えて、当時、東北軍の主力部隊は満州を離れていたため、日本軍の侵攻を止めることができなかった。結果、5か月と経たずに満州の主要な都市と鉄道沿線は日本軍によって占領された。

満州事変が発生した後、中国政府は国際連盟の理事会に提訴した。国際連盟は、イギリス人のリットンを団長とするリットン調査団を日本と満州に派遣して調査を行い、国際連盟はその報告書に基づいて、満州の主権は中国にあるため、南満州鉄道附属地外の日本軍は撤収することを求める勧告を採択した。日本はこの勧告を受け入れず、1933年3月に国際連盟を脱退した。

参考文献

『未来を開く歴史 東アジア三国の近現代史』日中韓三国共通歴史教材研究会 編著、2006年、高文研


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