第一次世界大戦8
出典: Jinkawiki
2020年1月31日 (金) 22:27の版 Daijiten2014 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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第一次世界大戦 この大戦の特質として、第一に、開戦のいきさつが非常に複雑であり、いずれか一つの国家の特定の行為が大戦をもたらしたというようには考えにくいということがあげられる。戦後、このような複雑ないきさつを無視して、戦勝国側が戦敗国ドイツ側に一方的に戦争を引き起こした責任を押し付けたことは、大きな禍根を残すことになる。ドイツ国民がこの戦争責任の押し付けに対して抱いた不満の感情は、やがてヒトラーの運動を育てる温床ともなる。第二次世界大戦を引き起こした中心人物がヒトラーであるのに対して、第一次世界大戦についてはこのような中心人物は存在しない。第二の特質として、この戦争が歴史上最初の総力戦であったという事実をあげることができる。ナポレオン戦争を別にすれば、19世紀にヨーロッパの諸国家間で行われた戦争はいずれも、ごく一部の人々の意志によって、国民の生活にあまり深刻な影響を及ぼさない形で遂行されたいわば「内閣戦争」であった。1866年のプロイセンとオーストリアとの、わずか七週間で終わったため「七週戦争」ともよばれた戦争(プロイセン・オーストリア戦争)などがその例である。ところが、第一次大戦は、世界の多くの国々を巻き込んだばかりでなく、一般国民の生活にも深刻な影響を与えた。前線の兵士に限らず、銃後の国民も戦争に動員されたこの戦争は、国のもてる力をあげて取り組む初めての総力戦であった。また、毒ガス、戦車、飛行機などの新兵器が投入されたこともこの戦争の際だった特徴で、そのため戦死者の数もそれまでの戦争とは比較にならぬほど多数に上った。ドイツとロシアがともにほぼ170万でもっとも多く、フランスが136万、オーストリアが120万、イギリスが90万、アメリカは12万6000といわれている。なお、大戦を通じてドイツ側として戦ったオーストリア、オスマン・トルコ、ブルガリアおよびドイツの四か国は同盟国とよばれ、フランス、イギリス、ロシア側として戦った諸国は初め協商国、のちに連合国とよばれたが、その理由については後述する。 イギリス外相グレーは、1914年8月3日の夕暮れ時に外務省の自室で、ヨーロッパの灯火(ともしび)はいますべて消えようとしており、自分たちが生きている間には、ふたたび灯火がともるのを見ることはできないであろう、という感慨に襲われた。グレーは、ヒトラーが権力を掌握した1933年の秋に世を去ったが、彼の予想はある程度あたっていた。1914年8月から第二次大戦が終わる1945年まで、ヨーロッパは絶えず不安定な状態に置かれており、第二次大戦は、かなりの程度第一次大戦という激しい地殻変動の延長、揺り返しというべき性格を帯びていたからである。