会合衆
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会合衆(かいごうしゅう、えごうしゅう)とは、室町時代から安土桃山時代にかけて都市で自治の市政を運営した組織の構成員のこと。特に堺におけるものが有名である。 | 会合衆(かいごうしゅう、えごうしゅう)とは、室町時代から安土桃山時代にかけて都市で自治の市政を運営した組織の構成員のこと。特に堺におけるものが有名である。 | ||
- | 同じ時期に山田(伊勢)、大湊(伊勢)、博多、酒田などの都市にも類似した組織が見られた。 | + | |
会合衆の名前の由来は、寺の集会にあったとされる。会合衆は、堺の有徳者で構成され、能登屋や臙脂屋などの有力商人がその任にあたった。堺で会合衆の名が初見されるのは季弘大叔の『蔗軒日録』で、1484年に三村社の祭礼で頭を務めたのが「会合衆内、カスエ(材木商・三宅主計)、イスミ(和泉)屋両人」と記されている。堺は摂津の堺荘と和泉の堺南荘に分かれていたが、会合衆が集まる会所それぞれにあったと言われている。堺荘では「北庄経堂」(『蔗軒日録』)とあるが場所は不明。堺南荘の会所は、発掘調査などで開口神社境内の念仏寺にあったと推定されている。また、定員は当初10人であったが、後に36人になったという説と、数に変化はなかったという説もある。 | 会合衆の名前の由来は、寺の集会にあったとされる。会合衆は、堺の有徳者で構成され、能登屋や臙脂屋などの有力商人がその任にあたった。堺で会合衆の名が初見されるのは季弘大叔の『蔗軒日録』で、1484年に三村社の祭礼で頭を務めたのが「会合衆内、カスエ(材木商・三宅主計)、イスミ(和泉)屋両人」と記されている。堺は摂津の堺荘と和泉の堺南荘に分かれていたが、会合衆が集まる会所それぞれにあったと言われている。堺荘では「北庄経堂」(『蔗軒日録』)とあるが場所は不明。堺南荘の会所は、発掘調査などで開口神社境内の念仏寺にあったと推定されている。また、定員は当初10人であったが、後に36人になったという説と、数に変化はなかったという説もある。 | ||
会合衆の下には各町の町年寄りや町代、月行事といった役職があり、町はそれぞれで運営されるといった重層的な自治体制をとっていた。 | 会合衆の下には各町の町年寄りや町代、月行事といった役職があり、町はそれぞれで運営されるといった重層的な自治体制をとっていた。 | ||
+ | 同じ時期に山田(伊勢)、大湊(伊勢)、博多、酒田などの都市にも類似した組織が見られた。 | ||
参考文献 | 参考文献 |
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会合衆(かいごうしゅう、えごうしゅう)とは、室町時代から安土桃山時代にかけて都市で自治の市政を運営した組織の構成員のこと。特に堺におけるものが有名である。
会合衆の名前の由来は、寺の集会にあったとされる。会合衆は、堺の有徳者で構成され、能登屋や臙脂屋などの有力商人がその任にあたった。堺で会合衆の名が初見されるのは季弘大叔の『蔗軒日録』で、1484年に三村社の祭礼で頭を務めたのが「会合衆内、カスエ(材木商・三宅主計)、イスミ(和泉)屋両人」と記されている。堺は摂津の堺荘と和泉の堺南荘に分かれていたが、会合衆が集まる会所それぞれにあったと言われている。堺荘では「北庄経堂」(『蔗軒日録』)とあるが場所は不明。堺南荘の会所は、発掘調査などで開口神社境内の念仏寺にあったと推定されている。また、定員は当初10人であったが、後に36人になったという説と、数に変化はなかったという説もある。 会合衆の下には各町の町年寄りや町代、月行事といった役職があり、町はそれぞれで運営されるといった重層的な自治体制をとっていた。 同じ時期に山田(伊勢)、大湊(伊勢)、博多、酒田などの都市にも類似した組織が見られた。
参考文献
『詳説 日本史』山川出版社