大政奉還2

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 1867年(慶応3)10月14日、徳川幕府一五代将軍・徳川慶喜は、二条城の大広間に集まった群臣の前で、「政権を朝廷に返還し奉る」旨を発表した。これが、大政奉還である。  1867年(慶応3)10月14日、徳川幕府一五代将軍・徳川慶喜は、二条城の大広間に集まった群臣の前で、「政権を朝廷に返還し奉る」旨を発表した。これが、大政奉還である。
- 大政奉還の建白書は、土佐の後藤象二郎が同藩の坂本竜馬の船中八策をアレンジし、山内容堂によって幕府に提出された。そして、大政奉還は慶喜が土佐藩が提出した「大政奉還の建白書」を受けて実行した。                                                                                 坂本竜馬は、慶応元年(1865)以来、薩摩藩の後援で「亀山社中」という組織を作り、海運や貿易を営みつつ、各藩の調整役として活躍していた。この組織に目を付けた土佐藩の重臣・後藤象二郎は竜馬と交渉し、慶応3年(1867)4月、亀山社中を「海援隊」と改称し、土佐藩の所属とした。新たに誕生した海援隊の隊長となった竜馬が、同年6月、長崎から後藤とともに船で京都に向かう船中で、後藤に示したのが、「船中八策」と呼ばれる新政権構想であった。その要となるものが大政奉還という朝廷に政権を返上するという考えであった。                                                                          竜馬は幕府による政治運営をなくす倒幕に意識を向けていた。徳川幕府が消えればそれでよかった。幕府があくまで政権に固執するようならば、武力制圧も辞さない考えであったが、まずは平和裡での政権移行を考えていた。なぜなら、武力倒幕派が、軍事力を用いて徳川幕府を倒した場合、薩摩・長州主導の新幕府ともいうべき軍事政権ができる可能性があったからである。竜馬は、これから日本が欧米列強と渡り会っていくためには、欧米の議会政治などを取り入れた新しい国家体制を建設することが必要であると考えていた。つまり、有力藩士らを議員とする儀会を設置し、朝廷と諸藩の連合政権を作ろうとしていたのである。                                                                                                      一方後藤は大政奉還論を利用して、藩の存在を示したいと考えた。かつては土佐勤王党を中心に、政治への影響力を誇っていた土佐藩であったが、一時期尊攘派を徹底的に弾圧していたため人材がなく、世論が倒幕に傾いたこの時期、他藩に出遅れていた。亀山社中を土佐藩に取り込んだのも、人材を確保することが目的であった。後藤は大政奉還を幕府に示すことで、土佐藩の発言力を回復したいと考えた。+ 大政奉還の建白書は、土佐の後藤象二郎が同藩の坂本竜馬の船中八策をアレンジし、山内容堂によって幕府に提出された。そして、大政奉還は慶喜が土佐藩が提出した「大政奉還の建白書」を受けて実行した。                                                                                 坂本竜馬は、慶応元年(1865)以来、薩摩藩の後援で「亀山社中」という組織を作り、海運や貿易を営みつつ、各藩の調整役として活躍していた。この組織に目を付けた土佐藩の重臣・後藤象二郎は竜馬と交渉し、慶応3年(1867)4月、亀山社中を「海援隊」と改称し、土佐藩の所属とした。新たに誕生した海援隊の隊長となった竜馬が、同年6月、長崎から後藤とともに船で京都に向かう船中で、後藤に示したのが、「船中八策」と呼ばれる新政権構想であった。その要となるものが大政奉還という朝廷に政権を返上するという考えであった。                                                                           竜馬は幕府による政治運営をなくす倒幕に意識を向けていた。徳川幕府が消えればそれでよかった。幕府があくまで政権に固執するようならば、武力制圧も辞さない考えであったが、まずは平和裡での政権移行を考えていた。なぜなら、武力倒幕派が、軍事力を用いて徳川幕府を倒した場合、薩摩・長州主導の新幕府ともいうべき軍事政権ができる可能性があったからである。竜馬は、これから日本が欧米列強と渡り会っていくためには、欧米の議会政治などを取り入れた新しい国家体制を建設することが必要であると考えていた。つまり、有力藩士らを議員とする儀会を設置し、朝廷と諸藩の連合政権を作ろうとしていたのである。                                                                                                       一方後藤は大政奉還論を利用して、藩の存在を示したいと考えた。かつては土佐勤王党を中心に、政治への影響力を誇っていた土佐藩であったが、一時期尊攘派を徹底的に弾圧していたため人材がなく、世論が倒幕に傾いたこの時期、他藩に出遅れていた。亀山社中を土佐藩に取り込んだのも、人材を確保することが目的であった。後藤は大政奉還を幕府に示すことで、土佐藩の発言力を回復したいと考えた。
   
   

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 1867年(慶応3)10月14日、徳川幕府一五代将軍・徳川慶喜は、二条城の大広間に集まった群臣の前で、「政権を朝廷に返還し奉る」旨を発表した。これが、大政奉還である。  大政奉還の建白書は、土佐の後藤象二郎が同藩の坂本竜馬の船中八策をアレンジし、山内容堂によって幕府に提出された。そして、大政奉還は慶喜が土佐藩が提出した「大政奉還の建白書」を受けて実行した。                                                                                 坂本竜馬は、慶応元年(1865)以来、薩摩藩の後援で「亀山社中」という組織を作り、海運や貿易を営みつつ、各藩の調整役として活躍していた。この組織に目を付けた土佐藩の重臣・後藤象二郎は竜馬と交渉し、慶応3年(1867)4月、亀山社中を「海援隊」と改称し、土佐藩の所属とした。新たに誕生した海援隊の隊長となった竜馬が、同年6月、長崎から後藤とともに船で京都に向かう船中で、後藤に示したのが、「船中八策」と呼ばれる新政権構想であった。その要となるものが大政奉還という朝廷に政権を返上するという考えであった。                                                                           竜馬は幕府による政治運営をなくす倒幕に意識を向けていた。徳川幕府が消えればそれでよかった。幕府があくまで政権に固執するようならば、武力制圧も辞さない考えであったが、まずは平和裡での政権移行を考えていた。なぜなら、武力倒幕派が、軍事力を用いて徳川幕府を倒した場合、薩摩・長州主導の新幕府ともいうべき軍事政権ができる可能性があったからである。竜馬は、これから日本が欧米列強と渡り会っていくためには、欧米の議会政治などを取り入れた新しい国家体制を建設することが必要であると考えていた。つまり、有力藩士らを議員とする儀会を設置し、朝廷と諸藩の連合政権を作ろうとしていたのである。                                                                                                       一方後藤は大政奉還論を利用して、藩の存在を示したいと考えた。かつては土佐勤王党を中心に、政治への影響力を誇っていた土佐藩であったが、一時期尊攘派を徹底的に弾圧していたため人材がなく、世論が倒幕に傾いたこの時期、他藩に出遅れていた。亀山社中を土佐藩に取り込んだのも、人材を確保することが目的であった。後藤は大政奉還を幕府に示すことで、土佐藩の発言力を回復したいと考えた。      このころ薩摩藩の西郷隆盛、長州藩の桂小五郎は、武力倒幕の準備を着々と進めていた。武力倒幕派の考えは、武力によって幕府を倒し、その後に天皇を頂点に戴く新政府を樹立するという革命思想であった。徳川幕府の打倒はもちろん、徳川家抹殺も視野に入れていた。

 1867年(慶応3)10月13日薩摩藩に、14日に長州藩に幕府を武力によって打倒してもよいという倒幕の密勅が下された。しかし、14日に徳川慶喜が政権を朝廷に返還したことにより、倒幕の密勅は意味を失った。  そして、突然政権を返上された朝廷は実際の政治に関わってこなかったために政府としての機能がないこともあり、結局は幕府の力に頼るほかなかった。そのため、幕府が政治運営を担当するという現状は変わらないことになった。  実は、この展開は慶喜の思惑通りであり、慶喜はそこまで考えた上で大政奉還を実行していた。

引用文献

岸祐二 著「手にとるように日本史がわかる本」かんき出版 2007

後藤武士 著「読むだけですっきり頭に入る日本史」宝島社 2000

武光誠 監修「知性のBasicシリーズ 3日でわかる日本史」ダイヤモンド社 2000

南条範夫 監修「古代から幕末維新まで歴史のウラを推理・解明する! 日本史の謎 450」主婦と生活社 2000

                                   


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