大宝律令

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2008年12月18日 (木) 22:01の版
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-○大宝律令(たいほうりつりょう)<br>+'''○大宝律令(たいほうりつりょう)<br>'''
- 8世紀初頭に制定された日本の律令である。唐の永徽律令(えいきりつれい、651年制定)を参考にしたと考えられている。大宝律令は、日本史上初めて律と令がそろって成立した本格的な律令である。+ 大宝律令とは、8世紀初頭に制定された日本の律令である。唐の永徽律令(えいきりつれい、651年制定)を参考にしたと考えられている。唐に渡った遣唐使によって唐の律令が模範になったのだろう。大宝律令は、日本史上初めて律と令がそろって成立した本格的な律令である。<br>
- 律は現代の刑法、令は行政法・民法にあたり、律6巻・令11巻だったというが、現存しない。内容は「続日本紀」の記述や「令集解(りょうのしゅうげ)」に引用される古記によって、条文の一部を知ることができる。<br>+ 律は現代の刑法、令は行政法・民法にあたり、律6巻・令11巻だったというが、現存はしない。内容は「続日本紀」の記述や「令集解(りょうのしゅうげ)」に引用される古記によって、条文の一部を知ることができる。<br>
-○成立<br>+'''○成立<br>''' 
- 大宝律令の成立は、先行する飛鳥浄御原令には律がなかったのに対し、はじめて律令ともに完備したことや、日本と唐の社会状態などをよく検討し、為政者の思惑などもじゅうぶん考えて現実的なものにするなど条文内容が充実していたことなど、画期的なものだった。そしてこの大宝律令によって645年(大化元)にはじまる大化の改新でめざした天皇中心の中央集権国家体制が、およそ50年をへてはじめて完成したのである。<br>+ 大宝律令の成立は、先行する飛鳥浄御原令には律がなかったのに対し、はじめて律令ともに完備したことや、日本と唐の社会状態などをよく検討し、為政者の思惑などもじゅうぶん考えて現実的なものにするなど条文内容が充実していたことが、画期的なものであった。そしてこの大宝律令によって645年(大化元)にはじまる大化の改新でめざした天皇中心の中央集権国家体制が、およそ50年を経てはじめて完成したのである。<br>
-○内容<br>+'''○内容<br>'''
 この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。大部ではないが、聖徳太子が理想として大化の改新で目標に掲げ邁進してきた律令社会の完成・開幕を告げるものであった。<br>  この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。大部ではないが、聖徳太子が理想として大化の改新で目標に掲げ邁進してきた律令社会の完成・開幕を告げるものであった。<br>
 役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないこと等々の、文書と手書きの形式を重視した文書主義が導入された。また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。<br>  役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないこと等々の、文書と手書きの形式を重視した文書主義が導入された。また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。<br>

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○大宝律令(たいほうりつりょう)
 大宝律令とは、8世紀初頭に制定された日本の律令である。唐の永徽律令(えいきりつれい、651年制定)を参考にしたと考えられている。唐に渡った遣唐使によって唐の律令が模範になったのだろう。大宝律令は、日本史上初めて律と令がそろって成立した本格的な律令である。
 律は現代の刑法、令は行政法・民法にあたり、律6巻・令11巻だったというが、現存はしない。内容は「続日本紀」の記述や「令集解(りょうのしゅうげ)」に引用される古記によって、条文の一部を知ることができる。

○成立
   大宝律令の成立は、先行する飛鳥浄御原令には律がなかったのに対し、はじめて律令ともに完備したことや、日本と唐の社会状態などをよく検討し、為政者の思惑などもじゅうぶん考えて現実的なものにするなど条文内容が充実していたことが、画期的なものであった。そしてこの大宝律令によって645年(大化元)にはじまる大化の改新でめざした天皇中心の中央集権国家体制が、およそ50年を経てはじめて完成したのである。

○内容
 この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。大部ではないが、聖徳太子が理想として大化の改新で目標に掲げ邁進してきた律令社会の完成・開幕を告げるものであった。
 役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないこと等々の、文書と手書きの形式を重視した文書主義が導入された。また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。
 757年に施行された養老律令はおおむね大宝律令を継承しているとされており、養老律令を元にして大宝律令の復元が行われている。


参考文献
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(大宝律令)
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/taihourituryou.html
http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1161531688/content.html

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