大隈重信
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2009年1月19日 (月) 22:06の版
大隈重信
大隈重信は、1837(天保9)年に佐賀県に生まれる。幼名は「八太郎」である。 重信は、自身を菅原道真の子孫と称している。 1850(嘉永3)年、重信が13歳の時に父を亡くしている。
学制の改革の計画
佐賀藩は、朱子学のみしか学ぶことを許しておらず、大隈も7歳より藩校弘道館で漢学を学ぶ。しかし、成長するにつれて窮屈な学制に抵抗を感じ、いち早く学制改革を計画するようになる。 大隈のこの計画の背景にあるのは、1856(嘉永6)年にアメリカのペリー提督の来航によって、わが国の200年の鎖国が破られ、西洋の国々と国交を行っていかなければならない状態に立たされたという事態である。 大隈は、このままの漢学に縛られた学制であっては、時勢に遅れてしまう、何とかして西洋の技術を学ばねば、という考えを持った。
その後、蕃内は保守派と革新派の思想が対立した。その対立が最も激しかったのが弘道館の学生であった。この騒動の発端は大隈の学制改革の計画である。大隈は、革新派の主導者として奮闘し、この対立は学生間暴行事件に発展する。藩は双方の主謀者を処分し、これを鎮圧した。大隈は革新派の主謀者として捕らえられ、弘道館から退学させられる。 しかしこれを機に、大隈は蘭学に転じ、学び始める。
維新財政の参加
1968(明治元)年に新政府が誕生すると、外国事務局判事となり、外交を担当した。その年の12月には外交官副知事(今の外務次官)に昇格する。当時の外交で最も頭を悩ませたのが、貨幣の問題である。イギリスの公使であるパークスは、明治政府と諸外国が交易を行うために、日本の貨幣統一の要求を突きつけてきた。
当時の外交と財政は切り離せないものであった。
この後、大蔵省事務総裁や地租改正事務局総裁などを勤め、電信や鉄道の敷設、幣制改革、地租改正、秩禄処分などで中心の人物となり、「大隈財閥」を展開させた。