鳥羽・伏見の戦い

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2009年1月26日 (月) 03:34の版
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 1868(慶応4)年1月3日、鳥羽街道で幕府軍と薩摩軍が衝突し、鳥羽・伏見の戦いが開始された。 徳川慶喜が15代将軍に就任してから1年後、王政復古のクーデターが起こり、江戸幕府の廃止と、慶喜の将軍辞任が正式に決まった。岩倉具視・西郷隆盛・大久保利通らの武力倒幕派は、慶喜から政治の実権を完全に奪うため、クーデターにつづいて行われた小御所会議で「辞任納地」を決定する。慶喜の官位と所領を取り上げようという考えである。これに対し、山内容堂(豊重、前土佐藩主)・松平春嶽(慶永、前福井藩主)らの公議政体派が巻き返しをはかる。両者の間で妥協案がまとまり、新政府内での慶喜の主導的役割が確保されそうであった。  しかし、1868(慶応4)年1月3日、慶喜は妥協案に満足できず、「討薩の表」を掲げ、開戦に踏み切ったのである。旧幕府軍は伏見街道を行く本隊と、鳥羽街道を進む別働隊の二手に別れ京をめざした。本隊を指揮するのが、陸軍奉行竹中重固で、会津藩兵を先鋒として新撰組や鳥羽藩兵が従った。別働隊の指揮官は大目付滝川具挙で、桑名藩兵を先鋒に見廻組や大垣藩兵などが続いた。  旧幕府軍の出陣を聞いた新政府軍も、薩摩藩・長州藩・土佐藩(一部)を中心に総勢5000の兵を送った。伏見方面→長州藩 鳥羽方面→薩摩藩  薩長側の兵のほうが兵の数は少なかったが、装備と戦意の高さで勝った薩長軍は、旧幕府軍を圧倒し勝利をおさめた。  この戦いに敗れた旧幕府軍は、いったん大阪城へ戻った。そして、大阪城を密かに脱出し、小船で江戸に逃走してしまった。総大将を失った旧幕府軍は、完全に戦意を喪失し壊滅状態となり、江戸へと敗走した。


参考

・岸 祐二 「手にとるように日本史がわかる本」 2001 かんき出版

・蔵 敏則 「新説 戦乱の日本史 第44回-鳥羽・伏見の戦い-」 2008 小学館

・八巻 孝夫 「新説 戦乱の日本史 第5回-新撰組疾風録-」 2008 小学館


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