上毛三山
出典: Jinkawiki
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また榛名山は五穀から養蚕に至るまで、また日照りや長雨でも望みを叶えてくれる作神として信仰を集めた。干害の折には雨乞の代参が榛名を目指し、境内の万年泉の湧水を竹筒に入れて持ち帰り、帰山後、干害田に注いで盛大な雨乞儀礼を行うのが恒例であった。こうした庶民信仰の仲介をしたのが御師と呼ばれた社家である。御師は関東各地の村や町を回り、初穂料などを集め、檀那場や檀中を拡大し、榛名講を組織した。榛名講は通常複数で構成され、講金を積み立て、二夜泊りの代参が講員を一巡するまで行われた。講員には御祓いの札が配られ、神社側には神楽奉納金や山役銭の収入が約束された。ここでは庶民誰もが手の届くように配慮されていた。 | また榛名山は五穀から養蚕に至るまで、また日照りや長雨でも望みを叶えてくれる作神として信仰を集めた。干害の折には雨乞の代参が榛名を目指し、境内の万年泉の湧水を竹筒に入れて持ち帰り、帰山後、干害田に注いで盛大な雨乞儀礼を行うのが恒例であった。こうした庶民信仰の仲介をしたのが御師と呼ばれた社家である。御師は関東各地の村や町を回り、初穂料などを集め、檀那場や檀中を拡大し、榛名講を組織した。榛名講は通常複数で構成され、講金を積み立て、二夜泊りの代参が講員を一巡するまで行われた。講員には御祓いの札が配られ、神社側には神楽奉納金や山役銭の収入が約束された。ここでは庶民誰もが手の届くように配慮されていた。 | ||
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==妙義山== | ==妙義山== | ||
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また東北や関東からやってきた伊勢参りや西国巡礼の人々は、帰りには中山道を通り、善光寺から妙義などに参詣するのが例となっていた。このように多くの人が訪れた背景には、旅の疲れを癒す温泉の存在があったといえる。妙義山東面中腹には荘厳な妙義神社が建立され、江戸時代には火伏せ・雷除けの霊験があると信じられていた。また、山の中腹の「大」の字は、旅人が遠く道端から手を合わせたという伝えがある。 | また東北や関東からやってきた伊勢参りや西国巡礼の人々は、帰りには中山道を通り、善光寺から妙義などに参詣するのが例となっていた。このように多くの人が訪れた背景には、旅の疲れを癒す温泉の存在があったといえる。妙義山東面中腹には荘厳な妙義神社が建立され、江戸時代には火伏せ・雷除けの霊験があると信じられていた。また、山の中腹の「大」の字は、旅人が遠く道端から手を合わせたという伝えがある。 | ||
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==参考文献== | ==参考文献== |
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上毛三山
上毛三山とは、赤城山、榛名山、妙義山の3つの山のことで、今も群馬県のシンボルとされている。三山はいずれも富士山や浅間山のように単独にそびえ立つものではなく、いくつかの峰の集合であり、それらを赤城山、榛名山、妙義山と呼んでいる。群馬県ではこの上毛三山にちなんで、多くの場合、運動会の応援団に赤城団・榛名団・妙義団と名前をつけている。またこれらの山々は、古くから山岳信仰の霊場として人々の信仰を集めてきたことでも知られている。
赤城山
赤城山は関東地方の北部、群馬県のほぼ中央に位置し、カルデラ及びカルデラ湖を持つ関東地方で有数の複式火山である。また、日本百名山、日本百景の一つにも選ばれている。「あかぎさん」と呼ばれることもある。中央のカルデラの周囲を、円頂をもつ1200-1800mの峰々が取り囲み、その外側、標高にして大体800m以下は広く緩やかな裾野の高原台地をなしている。カルデラ内の大沼の東岸、最高峰黒檜山の山麓にあたる場所に赤城神社があり、山麓各地に里宮があるほか、関東一円に末社が分布している。
榛名山
山頂にはカルデラ湖である榛名湖と中央火口丘の榛名富士(標高1390.3m)がある。6世紀前半に約30年の間隔を空けて大きな噴火をしたと見られている。中央のカルデラと榛名富士を最高峰の掃部ヶ岳(かもんがたけ 標高1449m)、天目山(1303m)、尖った峰の相馬山(1411m)、二ッ岳(1344m)、典型的な溶岩円頂丘の烏帽子岳(1363m)、鬢櫛山(1350m)などが囲み、更に外側にも水沢山(浅間山 1194m)、鷹ノ巣山(956m)、三ッ峰山(1315m)、杏が岳(1292m)、古賀良山(982m)、五万石(1060m)など数多くの側火山があって、非常に多くの峰をもつ複雑な山容を見せている。また、榛名山周辺には伊香保温泉をはじめ各種の温泉が出ている。
また榛名山は五穀から養蚕に至るまで、また日照りや長雨でも望みを叶えてくれる作神として信仰を集めた。干害の折には雨乞の代参が榛名を目指し、境内の万年泉の湧水を竹筒に入れて持ち帰り、帰山後、干害田に注いで盛大な雨乞儀礼を行うのが恒例であった。こうした庶民信仰の仲介をしたのが御師と呼ばれた社家である。御師は関東各地の村や町を回り、初穂料などを集め、檀那場や檀中を拡大し、榛名講を組織した。榛名講は通常複数で構成され、講金を積み立て、二夜泊りの代参が講員を一巡するまで行われた。講員には御祓いの札が配られ、神社側には神楽奉納金や山役銭の収入が約束された。ここでは庶民誰もが手の届くように配慮されていた。
妙義山
急勾配の斜面と尖った姿が特徴的で日本三大奇勝の一つである。また、日本百景に選定されている。妙義山は、白雲山・金洞山・金鶏山・相馬岳・御岳・丁須ノ頭などを合わせた総称で、南側の表妙義と北側の裏妙義に分かれている。特に下仁田側から眺望できる金洞山は別名中之嶽と呼ばれ、親しまれてきた。奇岩がいたるところに見られる妙義山の中でも中之嶽の景色は圧巻で、中腹を巡る第1石門から第4石門を始め、ロウソク岩・大砲岩・筆頭岩・ユルギ岩・虚無僧岩といったユニークな名前の岩石群は日本屈指の山岳美と讃えられている。
また東北や関東からやってきた伊勢参りや西国巡礼の人々は、帰りには中山道を通り、善光寺から妙義などに参詣するのが例となっていた。このように多くの人が訪れた背景には、旅の疲れを癒す温泉の存在があったといえる。妙義山東面中腹には荘厳な妙義神社が建立され、江戸時代には火伏せ・雷除けの霊験があると信じられていた。また、山の中腹の「大」の字は、旅人が遠く道端から手を合わせたという伝えがある。
参考文献
西垣晴次(編) 1989 図説 群馬県の歴史 河出書房新社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%9F%8E%E5%B1%B1