小野妹子
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推古朝の官人である。生没年不詳であるとされているが、生まれ年は西暦570年~590年の間と推測される。また、西暦669年6月30日永眠説がある。 | 推古朝の官人である。生没年不詳であるとされているが、生まれ年は西暦570年~590年の間と推測される。また、西暦669年6月30日永眠説がある。 | ||
近江国滋賀郡小野村(現、滋賀県滋賀郡志賀町)を本拠とし、和珥・春日氏の同族であり、歌人の小野小町、能書家の小野道風は小野妹子と同族である。また、小野毛人は子、毛野は孫にあたる。 | 近江国滋賀郡小野村(現、滋賀県滋賀郡志賀町)を本拠とし、和珥・春日氏の同族であり、歌人の小野小町、能書家の小野道風は小野妹子と同族である。また、小野毛人は子、毛野は孫にあたる。 | ||
- | 大化の改新後は、政治上の専門役である国博士に任命される。また、後に仏門に入り、名を専務と改める。 | ||
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小野氏の本拠地は近江であり、朝廷のある大和(奈良)とは少し離れており、その一族にいた妹子は当時は全くの無名であった。だが、その優秀さをいち早く見抜いた聖徳太子によって、遣隋使の大役を任された。 | 小野氏の本拠地は近江であり、朝廷のある大和(奈良)とは少し離れており、その一族にいた妹子は当時は全くの無名であった。だが、その優秀さをいち早く見抜いた聖徳太子によって、遣隋使の大役を任された。 | ||
- | 607年(推古15)遣隋使として中国にわたる。冠位は大礼。隋では蘇因高と呼ばれた。「隋書」によると、このとき「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書を呈し、煬帝を不快にさせたという。翌608年、隋使の裴世清らを伴って帰国。帰途、隋の国書を百済人に奪われたと報告したが、国書の内容が朝廷の期待するものと異なっていたので、自ら破棄したものともいわれる。同年、裴世清らの帰国の際に、「日本書紀」によれば「東天皇啓白西皇帝」の国書をたずさえ、大使として再び隋にわたった。小使は吉士雄成、通事は鞍作福利で、高向玄理・南淵請安・僧旻ら留学生・学問僧8人が随行した。翌609年帰国。その後の業績は明らかではないが、冠位は大徳にまで昇った。 | + | 607年(推古15)遣隋使として中国に渡った。冠位は大礼。隋では蘇因高と呼ばれた。この時、当時の隋皇帝・煬帝に太子から預かった国書(「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」で始まる国交樹立を請う書)を渡し、煬帝から大いに怒りを買った。 |
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+ | 翌608年、隋使の裴世清らを伴って帰国。帰途、隋の国書を百済人に奪われたと報告したが、国書の内容が朝廷の期待するものと異なっていたので、自ら破棄したものともいわれる。同年、裴世清らの帰国の際に、「日本書紀」によれば「東天皇啓白西皇帝」の国書をたずさえ、大使として再び隋にわたった。小使は吉士雄成、通事は鞍作福利で、高向玄理・南淵請安・僧旻ら留学生・学問僧8人が随行した。翌609年帰国。その後の業績は明らかではないが、冠位は大徳にまで昇った。 |
2009年1月27日 (火) 16:12の版
・小野妹子とは
推古朝の官人である。生没年不詳であるとされているが、生まれ年は西暦570年~590年の間と推測される。また、西暦669年6月30日永眠説がある。 近江国滋賀郡小野村(現、滋賀県滋賀郡志賀町)を本拠とし、和珥・春日氏の同族であり、歌人の小野小町、能書家の小野道風は小野妹子と同族である。また、小野毛人は子、毛野は孫にあたる。
・遣隋使として
小野氏の本拠地は近江であり、朝廷のある大和(奈良)とは少し離れており、その一族にいた妹子は当時は全くの無名であった。だが、その優秀さをいち早く見抜いた聖徳太子によって、遣隋使の大役を任された。
607年(推古15)遣隋使として中国に渡った。冠位は大礼。隋では蘇因高と呼ばれた。この時、当時の隋皇帝・煬帝に太子から預かった国書(「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」で始まる国交樹立を請う書)を渡し、煬帝から大いに怒りを買った。
翌608年、隋使の裴世清らを伴って帰国。帰途、隋の国書を百済人に奪われたと報告したが、国書の内容が朝廷の期待するものと異なっていたので、自ら破棄したものともいわれる。同年、裴世清らの帰国の際に、「日本書紀」によれば「東天皇啓白西皇帝」の国書をたずさえ、大使として再び隋にわたった。小使は吉士雄成、通事は鞍作福利で、高向玄理・南淵請安・僧旻ら留学生・学問僧8人が随行した。翌609年帰国。その後の業績は明らかではないが、冠位は大徳にまで昇った。