天狗党の争乱
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1864(元治1)年3月27日、水戸藩の尊王攘夷激派の藤田小四郎らが首謀者となり、幕府に攘夷断行を促すため、筑波山(茨城県)に挙兵したときはじまる。藩領内の郷校に集結していた郷士や周辺各地の農民らも参加し、日光、大平山、ふたたび筑波山へと移動する間に、約1000人にまで膨れ上がった。 6月、幕府は関東諸藩に出兵を命じ、追討軍を派遣した。水戸藩保守門閥派の市川三左衛門らが率いる諸生党軍と連合して、7月から天狗党と戦うが、下妻では天狗党が夜襲で勝利した。 藩権力を握った諸生党と水戸で戦って破れた天狗党は、水戸藩主徳川慶篤が藩内鎮撫を命じて派遣した宍戸藩主松平頼徳らの大発勢や武田耕雲斎一行と合流する。しかし、那珂湊の戦いで大発勢が幕府に投降したため、天狗党は茨城県北西の大子に脱出、京にいる徳川(一橋)慶喜(前水戸藩主斉昭の子)を頼って、11月1日、長い西上についた。大砲を引き、鉄砲を担いだ約1000人の武装集団となった天狗党は、軍制を定めて耕雲斎を総大将とした。 下野(栃木県)・上野(群馬)から信濃(長野県)へと進軍し、途中、下仁田と和田峠で諸藩の兵と交戦するが、いずれも奇襲で勝利した。美濃(岐阜県)を通り、大雪の越前(福井県)を行軍し新保宿までたどり着いたとき、頼りとする慶喜が追討軍総督として出陣をしていること知り、12月17日降伏する。翌1865(慶応1)年2月、幕命で耕雲斎・小四郎をはじめ、352人が敦賀で斬首された。
参考
・蔵 敏則 「新説 戦乱の日本史 第41回」 2008 小学館
・岸 祐二 「手にとるように日本史がわかる本」 2001年 かんき出版