守護・地頭の設置
出典: Jinkawiki
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守護、地頭の設置は、1185(文治1)年、後白河法皇の義経をめぐる失敗(頼朝追討の院宣を彼に与えた)をとらえ、逆に義経追捕の院宣を口実に、守護・地頭の全国的配置と兵糧米の徴収および田地の支配などを公認させたのである。守護・地頭の設置によって頼朝は全国の軍事・警察権をにぎり、貴族や寺社の荘園に対してもその力が及ぶようになり、東国に限られていた頼朝の権力は全国的規模へと発展するようになった。さらに、守護・地頭に頼朝の御家人が任命されることのより、頼朝と御家人の私的な主従関係も公的なものとなり、守護・地頭の設置は、武家政権の確立にとって極めて大きな意義を持つ。
史料
1185(文治1)年11月12日、今度のことは鎌倉幕府にとって重大事なので、処置の方法や見通しについて、頼朝が大変心配していたところ、前の因幡守の大江広元が申し上げた。「世の中はすでに末の世で、凶悪な者も最もでやすい時です。反乱を起こす者は今後も続くでしょう。東海道は頼朝公が支配されているので穏やかに始まっていますが、反乱はきっと他の地方で起こるでしょう。それを鎮定するために、そのつど東国の武士を派遣されたら、人々の負担になり、国の費用の無駄遣いにもなりますから、この機会に、諸国に命令を出され、国衙領・荘園ごとに守護・地頭を任命されれば、反乱を恐れることはありません。早くこのことを朝廷に申請されればいいでしょう。」頼朝は満足し、広元の提案のように決定した。
文治1年1月28日、諸国に一様に守護・地頭を任命し、貴族や寺社の荘園・国衙領の区別なく、兵糧米を一段について5升の割合で徴収するよう、今夜、北条時政が中納言藤原経房に申し入れたという。(吾妻鏡)
文治1年11月28日、こういうことも聞いた。北条時政以下の家来たちを、畿内・山陰・山陽・南海・西海の西日本の諸国に分け、荘園・公領の区別なく、兵糧米を一段につき5升の割合で徴収する。ただ単に兵糧米の徴収だけではなく、土地の支配も行うという。(玉葉)
守護・地頭の設置は、武士の力を飛躍させた大きな要因の一つといえるだろう。そして、これは鎌倉幕府の基礎ともなった。
参考文献
精選日本史史料集 第一学習社
日本全史 講談社