真田信繁
出典: Jinkawiki
2009年1月28日 (水) 15:32の版 Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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真田信繁(1567~1615 ただし生誕、死没ともに色々な諸説がある)は戦国時代中期から江戸時代前期の武将である。俗に言う真田幸村であるが、この名前は信繁の没後に小説や講談なので、真田十勇士を従えた天才軍師の名として世に語り継がれ一般的になった。
生涯
・武田家の配下だった真田家の信濃上田城主・真田昌幸の次男として生まれる。1575年に長篠の戦いに武田家として真田家も出陣するも敗北。その際に昌幸の兄二人も亡くなったため、昌幸が真田家を継ぐことになる。1582年織田・徳川・北条連合軍に甲斐進行に遭い、武田家は滅亡すると真田家は信長の配下となった。
・その後、本能寺の変によって信長が明智光秀に討たれると真田家は後援が無くなって、他の大名の傘下を行き来した。この間に徳川家康との間で第一次上田合戦があり、豊臣秀吉が仲介をした。このときの縁で真田家は豊臣家に仕えることになる。
・秀吉が死んだ後に家康と石田三成との間で関ヶ原の戦いが勃発。真田家は信繁の兄である信之は、妻が東軍の家康の家臣、本田忠勝の娘の小松姫だったこともあり東軍に、信繁は西軍の大谷吉継の娘が妻であること、昌幸は徳川方に着いたら一生小大名で終わってしまうと自負しており、それなら三成側で戦おうとする野心を持っていたため西軍に着いた。真田家が敵対することになったがこれはどちらか一方が負けてもせめて真田の家名は残そうと考えたからであった。他にも関ヶ原の戦いにおいてこのような方法をとったのは秀吉の時の五大老で亡き父前田利家の後を告いだ前田家や、蜂須賀家などがあった。 ・1600年、徳川秀忠は家康の命令を受け3万8千の軍を率いて関ヶ原へと向かっていた。その途中に真田父子がいた上田城を攻めたが敗退。秀忠を上田城周辺で足止めすることに成功した。後に秀忠は上田城を攻略することを諦め西を目指したが、目的地に到着したのは関ヶ原の戦いが終わった後のことであった。この戦いで真田父子は天下に勇名を轟かせたが、秀忠は天下分け目の大戦に遅参の汚名を残すことになった。しかし関ヶ原で西軍が敗れたため所領を没収、紀伊の高野山を経て九度山に幽閉されることになった。
・九度山で浪人として生活をすることになった真田父子は辛い生活を送ることになる。徳川方にいた信之からの仕送りがあったため何とか生活をすることができたが何かと金が掛かり借金することも間々ならなかった。そんな中、父・昌幸が1611年にこの世を去った。
・1614年に豊臣家に味方になるように誘われて九度山を降り、大坂城に入った。信繁は様々な提案をしたが却下され、籠城となったていたときに大阪城の南側に通称真田丸を構築した。この真田丸は大阪冬の陣の時にここへ誘い込み徳川方を退けさせた。そして、大坂夏の陣では家康と結んでいた和議を破られ外堀を埋められた大坂城は丸裸になり落城も時間の問題になった。信繁も最後の抵抗をし、徳川の本陣にも迫る勢いであったが疲れ果て、安居神社で休んでいたが西尾宗次に出くわし、これまでと悟った信繁は「自分の首を差し出し高名とせよ」と自ら兜を脱ぎ生涯を終えた。
人物
・旗印である六連銭は、六道銭を表しているといわれている。六道銭とは、亡くなった人を葬る時、棺に入れる六文の銭の事で、三途の川の渡し賃のことである。これを旗印にすることは「不惜身命」(仏法のために身命をささげて惜しまないこと)を意味するといわれている。 ・信繁が上杉家の人質になっているときに直江兼続と出会い、謙信より受け継がれた「義」を信繁は伝授され、信繁はその「義」を貫き転々と変わっていた上司の大名に従えた。
<参考>http://tikugo.cool.ne.jp/osaka/busho/sanada/b-sanada-yuki.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E5%B9%B8%E6%9D%91
<参考文献> 羽生道英 「直江兼続」 幻冬舎文庫