東海道五十三次
出典: Jinkawiki
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東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)は、江戸時代に整備された江戸と京都を結ぶ海道である。江戸時代に幕府によって定められた街道は5つあり、これを五街道(奥州街道・日光街道・甲州街道・中山道・東海道)と呼ぶ。東海道はそのうちのひとつであり、53の宿場を指している。 | 東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)は、江戸時代に整備された江戸と京都を結ぶ海道である。江戸時代に幕府によって定められた街道は5つあり、これを五街道(奥州街道・日光街道・甲州街道・中山道・東海道)と呼ぶ。東海道はそのうちのひとつであり、53の宿場を指している。 | ||
東海道五十三次は歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』にも描かれ、特にその中の『日本橋』などは非常に有名である。また、万治元年(1658)に浅井了意が『東海道名所記』を、十返舎一九が野次喜多でも有名な『東海道中膝栗毛』(1802)にも描かれている。江戸の出口は千住、品川、新宿、板橋とされ四宿と呼ばれており、遊里の許可のない飯盛り女と呼ばれる宿場女郎が置かれていたことも興味深いものである。 | 東海道五十三次は歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』にも描かれ、特にその中の『日本橋』などは非常に有名である。また、万治元年(1658)に浅井了意が『東海道名所記』を、十返舎一九が野次喜多でも有名な『東海道中膝栗毛』(1802)にも描かれている。江戸の出口は千住、品川、新宿、板橋とされ四宿と呼ばれており、遊里の許可のない飯盛り女と呼ばれる宿場女郎が置かれていたことも興味深いものである。 |
2009年1月29日 (木) 15:53の版
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)は、江戸時代に整備された江戸と京都を結ぶ海道である。江戸時代に幕府によって定められた街道は5つあり、これを五街道(奥州街道・日光街道・甲州街道・中山道・東海道)と呼ぶ。東海道はそのうちのひとつであり、53の宿場を指している。 東海道五十三次は歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』にも描かれ、特にその中の『日本橋』などは非常に有名である。また、万治元年(1658)に浅井了意が『東海道名所記』を、十返舎一九が野次喜多でも有名な『東海道中膝栗毛』(1802)にも描かれている。江戸の出口は千住、品川、新宿、板橋とされ四宿と呼ばれており、遊里の許可のない飯盛り女と呼ばれる宿場女郎が置かれていたことも興味深いものである。 五街道のうち、東海道が最も賑わったとされているが、それは京都との往来であったことと参勤交代の大名の数が多かったことによる。
五十三次の宿場名(日本橋~京)
日本橋―品川―川崎―神奈川―程ヶ谷―戸塚―藤沢―平塚―大磯―小田原―箱根―三島―沼津―原宿―吉原―蒲原―由比―興津―江尻―府中―鞠子―岡部―藤枝―島田―金谷―日坂―掛川―袋井―見付―浜松―舞浜―新居―白須賀―二川―吉田―御油―赤坂―藤川―池鯉鮒―鳴海―宮―桑名―四日市―石薬師―庄野―亀山―関―坂下―土山―水口―石部―草津―大津―京
日本橋は江戸の中心地。橋としての日本橋は慶長8年(1603)に徳川家康によってかけられた。現在は火事による消失で石造の橋であるが、当時は木造の橋であった。罪人のさらし場所にもなっていという。日本橋から2里(約8km)進むと、東海道の出入り口である品川にたどり着く。品川には問屋場という場所があり、駕籠や馬を手配すれば一定の賃金で次の宿場まで送ってくれたりするので、旅人で賑わった。また、品川には旅籠屋(はたごや)と呼ばれる宿が多数あり、そこでは飯盛女(めしもりおんな)と称した遊女がいて、旅人の相手をしたという。吉原の花魁(おいらん)と比べれば、低ランクの女郎である。次の宿場の川崎は川崎大師が有名である。軽井沢も近い。昔の人は女でも老人でも最初に宿をとるのはこの神奈川だったとされる。
江戸の人々は旅に出るのがおっくうであったという。金のないものは徒歩でしか旅はできないし、金持ちでも揺れの大きい駕籠や馬を使うしかない。現代のように1日で全国どこへでも行けるような交通手段はないので当たり前であるが。行っても箱根までであったという。もっとも、箱根には関所があり、それを越すには様々な手続きが必要で、しかも箱根山を越えることも体力を消耗するからである。
女の足では江戸を出ての2夜目を平塚でとる。平塚から大礒までは比較的近く、海も近くなり海岸線を小田原まで一直線だ。小田原につくと、江戸から20里20町(約80㎞)の距離を歩いたことになる。そして男の足での2夜目は小田原でとられる。平塚で宿をとった女や老人も小田原で宿をとった。これは箱根山越えを前にして一度宿をとり、早朝出発して山越えをするためである。小田原は外郎(ういろう)が名物である。また箱根の関所を越えるための面倒な手続きを避けるために裏道も当たり前にあり、しかも大抵が大目に見られていたらしい。箱根を越えると労をねぎらい三嶋でも小田原でも主人から祝儀が出た。また、現在と同様箱根は温泉が有名。かつては湯治と呼び、病気やけがの治療に温泉を用いた。そのため現代のように1回を楽しみにくるのではなく、7日間を1セットとして何度も湯に入ったという。
箱根を越えて三嶋、沼津を越え原宿につくと右手に富士山が見える。これを歌川広重も葛飾北斎も絵に描いた。原宿から吉原、蒲原、由井、江尻と来て府中に入るとやっと静岡県である。江戸から46里8町(約190km)の距離を歩いたことになる。府中からは内陸部を行く。次に海岸線に出るのは舞坂である。鞠子はとろろ汁が名物で、広重も北斎もそれを絵に描いている。嶋田を通りすぎ、金谷坂は上り坂できつい。広重の「佐夜の中山」にも急こう配の山道が描かれている。天竜川を越えて浜松につくと、既に江戸より京都の方へ近くなる。京へはあと60里19町(240㎞)である。舞坂から次の宿所、新居までは海上1里“今切の渡し”という。広重の絵にも描かれている。これは浜名湖が明応8(1499)年の大地震の津波で、海と湖の間の陸地が切れ、船渡しをするようになったのだという。海を渡り、新居の関所は箱根と並ぶ東海道の関所である。箱根よりはゆるやかであったが、なぜか女には手形を改め、厳重に調べたという。
白須賀を過ぎるとまたも海岸からはおさらば。内陸へ北上していく。吉田を通ると豊川が流れ、それを渡って御油、赤坂へと続く。御油、赤坂、岡崎も遊女の多いところである。読みにくい地名だが、池鯉鮒とかいてちりうと読む。ここでちょうど東海道を3分の2来たことになる。ここは織田信長と今川義元の桶狭間の戦いで有名な桶狭間が近い。鳴海、宮につくと京へはあと36里である。宮は桑名へ海上7里の渡しを行う。陸地を桑名、四日市を通り、石薬師、庄野と続く。江戸から106里2町、鈴鹿川沿いを行くと関に着く。名産は火縄である。そして鈴鹿峠のふもとにあるのが坂の下である。京へはあと18里(約72km)。土山、水口と来て宿屋の女たちが客を自分の宿へ泊めようと賑わい、旅人はどじょう汁を食べる。
旅人は石部、草津、大津と来て、日本最大の湖、琵琶湖の素晴らしい景色をみることができる。大津は京の一歩手前、あと3里で江戸から京都への長い東海道の道のりは終わりを迎える。大津で琵琶湖でとれる鯉や鮒、ハス、鰻を食べ、三条大橋を渡って京の街へ入ることになる。王城の地、物腰豊かな京美人と素晴らしい風景。江戸に比べて静かな京の街で名物ハモの骨切りを食べることになるだろう。
参考文献
東海道五十三次 岸井良衛 中公新書
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93%E4%BA%94%E5%8D%81%E4%B8%89%E6%AC%A1