平氏の繁栄

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2009年1月28日 (水) 17:29の版
Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録)

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 平清盛の一家の人たちといえば、身分の高い公家たちも、対等につきあいができない。清盛の妻の弟、平時忠も、「この平家一門でない者は人と言えない」と言った。そこで誰もが平氏の縁故者になろうとした。衣文のとり方・烏帽子の折り方など、六波羅風といえば、人々はみなこれをまねた。清盛だけではなく、一門の者がそろって繁栄し、嫡子重盛は内大臣で左大将、次男宗盛は中納言で右大将、三男知盛は3位の中将、孫(重盛の子)の維盛は4位の少将となり、一門の公卿は16人、殿上人は30余人、諸国の受領、衛府や諸司の役人など総数60余人に及んだ。まことに世の中には平氏のほかに人がいないように思われた。日本は、わずか66カ国だが、そのうち平氏一族の知行国は30余国で、全国の半分以上に及ぶ。その他、荘園や田畑はどれくらいあるかわからない。屋敷には華やかな服装の人々がいっぱいで、まるで花が咲いたように美しい。門前には車や馬がたくさん集まり、市場のようなにぎやかさである。中国の楊州の金、呉郡の綾、蜀江の綿など珍しい宝物が集まり、何一つとしてないものはない。歌や舞をする御殿や、珍しい演芸やあそびものなど、おそらく内裏や院の御所のもこれ以上のものはないと思われた。  平清盛の一家の人たちといえば、身分の高い公家たちも、対等につきあいができない。清盛の妻の弟、平時忠も、「この平家一門でない者は人と言えない」と言った。そこで誰もが平氏の縁故者になろうとした。衣文のとり方・烏帽子の折り方など、六波羅風といえば、人々はみなこれをまねた。清盛だけではなく、一門の者がそろって繁栄し、嫡子重盛は内大臣で左大将、次男宗盛は中納言で右大将、三男知盛は3位の中将、孫(重盛の子)の維盛は4位の少将となり、一門の公卿は16人、殿上人は30余人、諸国の受領、衛府や諸司の役人など総数60余人に及んだ。まことに世の中には平氏のほかに人がいないように思われた。日本は、わずか66カ国だが、そのうち平氏一族の知行国は30余国で、全国の半分以上に及ぶ。その他、荘園や田畑はどれくらいあるかわからない。屋敷には華やかな服装の人々がいっぱいで、まるで花が咲いたように美しい。門前には車や馬がたくさん集まり、市場のようなにぎやかさである。中国の楊州の金、呉郡の綾、蜀江の綿など珍しい宝物が集まり、何一つとしてないものはない。歌や舞をする御殿や、珍しい演芸やあそびものなど、おそらく内裏や院の御所のもこれ以上のものはないと思われた。
-このような平氏政権から源氏政権の鎌倉幕府に繋がっていく。平氏が滅んだのは、伊勢平氏の一統であって、将門の血族である平家一族の千葉氏や上総氏、伊豆の北条氏、相模の三浦氏など、平氏一門が源氏政権である鎌倉幕府を支えていったのである。+ 
 + このような平氏政権から源氏政権の鎌倉幕府に繋がっていく。平氏が滅んだのは、伊勢平氏の一統であって、将門の血族である平家一族の千葉氏や上総氏、伊豆の北条氏、相模の三浦氏など、平氏一門が源氏政権である鎌倉幕府を支えていったのである。

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 平治の乱(1159年)に勝利を収めた平清盛は、その後目ざましい昇進をとげ、1167(仁安2)年、武士として初めて太政大臣となり政権を握った。平氏政権は、清盛が娘徳子を高倉天皇の中宮に入れ外孫を安徳天皇として立てたことや、一門が律令体制内の高位高官に昇ったことをみれば、貴族政権的性格の濃いものであった。しかしその一方で、家人を地頭に任じ荘園支配を行うなど武家政権の先駆的性格をもっていた。また経済的基盤をみても、全国の半ばに及ぶ知行国と500余の荘園に依拠していた点では、やはり貴族的性格が濃いが、日宋貿易を積極的に促進した新しい面も示しており、様々な意味で古代から中世への過度的な政権だった。このような政権の中、平氏一門が権勢をほこり、特に清盛に独裁的姿勢が強まるにつれ、新・旧両勢力から反平氏の動きがおこるようになった。はやくも1177(治承1)年に、後白法王の側近が平氏打倒の陰謀を企て捕縛された鹿ケ谷事件がおこった。1180(治承4)年、源頼政が以仁王を奉じて挙兵し、諸国の源氏に平氏打倒を命じた王の令旨を伝えると、清盛は2人を敗死させたにもかかわらず、突如福原への遷都を強行し態勢の立て直しを図った。しかし、周囲の強い反対で半年足らずで京都に帰らずを得ず、かえって平氏の衰退をはやめることとなった。遷都失敗からわずか5年で平氏は滅亡する。


平家物語

 平清盛の一家の人たちといえば、身分の高い公家たちも、対等につきあいができない。清盛の妻の弟、平時忠も、「この平家一門でない者は人と言えない」と言った。そこで誰もが平氏の縁故者になろうとした。衣文のとり方・烏帽子の折り方など、六波羅風といえば、人々はみなこれをまねた。清盛だけではなく、一門の者がそろって繁栄し、嫡子重盛は内大臣で左大将、次男宗盛は中納言で右大将、三男知盛は3位の中将、孫(重盛の子)の維盛は4位の少将となり、一門の公卿は16人、殿上人は30余人、諸国の受領、衛府や諸司の役人など総数60余人に及んだ。まことに世の中には平氏のほかに人がいないように思われた。日本は、わずか66カ国だが、そのうち平氏一族の知行国は30余国で、全国の半分以上に及ぶ。その他、荘園や田畑はどれくらいあるかわからない。屋敷には華やかな服装の人々がいっぱいで、まるで花が咲いたように美しい。門前には車や馬がたくさん集まり、市場のようなにぎやかさである。中国の楊州の金、呉郡の綾、蜀江の綿など珍しい宝物が集まり、何一つとしてないものはない。歌や舞をする御殿や、珍しい演芸やあそびものなど、おそらく内裏や院の御所のもこれ以上のものはないと思われた。


 このような平氏政権から源氏政権の鎌倉幕府に繋がっていく。平氏が滅んだのは、伊勢平氏の一統であって、将門の血族である平家一族の千葉氏や上総氏、伊豆の北条氏、相模の三浦氏など、平氏一門が源氏政権である鎌倉幕府を支えていったのである。


参考文献

精選日本史史料集 第一学習社

日本史B 山川出版


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