足尾鉱毒事件

出典: Jinkawiki

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2009年1月28日 (水) 18:50の版
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足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)は、19世紀から20世紀の栃木県、群馬県で起きた足尾銅山の公害事件。明治時代後期に発生した日本の公害の原点である。足尾銅山鉱毒事件と表記される場合も多い。原因の企業は古河鉱業(現在の古河機械金属)。


鉱毒による被害

栃木県の足尾町(現日光市)にある銅山は日本でも有数の銅の産地であった。坑道の距離は約1200キロ。東京から博多までの距離に匹敵する。足尾銅山の歴史は深く1610年に開山された。 しかし、江戸時代前期をピークとして産出量はいったん低下し、幕末にはほとんど廃山の状態となって国有化された。 明治維新後、民間に払い下げられ、1877年に古河市兵衛の経営となる。江戸時代の無計画な採掘で生産性が低く長い期間採掘されていなかった事もあり足尾銅山の再生は無理といわれていた。しかし市兵衛は計画的な採掘や探鉱が行われていなかった事が原因と思い足尾銅山の経営に乗り出すこととなった。古河は採鉱事業の近代化を進めたが、1885年までに大鉱脈が発見された。さらに西欧の近代鉱山技術を導入した結果、足尾銅山は日本最大の鉱山となり、年間生産量数千トンをかぞえる東アジア一の銅の産地となる。当時銅は日本の主要輸出品のひとつであり、全国の産出量の4分の1は足尾銅山が占めていた。しかし精錬時の燃料による排煙や、精製時に発生する鉱毒ガス(主成分は二酸化硫黄)、排水に含まれる鉱毒(主成分は銅イオンなどの金属イオン)が、付近の環境に多大な被害をもたらすこととなった。 鉱毒による被害はまず、1885年、渡良瀬川の鮎の大量死という形で現れた。ただし、当時は原因が分かっておらず、これを8月12日に最初に報じた朝野新聞も、足尾銅山が原因かもしれないというような、あいまいな書き方をしている。同年10月31日、下野新聞が前年ごろから足尾の木が枯れ始めていることを報じ、これら2つが足尾銅山と公害を結びつける最初期の報道と考えられる。 鉱毒ガスやそれによる酸性雨により足尾町近辺の山は禿山となった。木を失い土壌を喪失した土地は次々と崩れていった。 また、渡良瀬川から取水する田園や、洪水後、足尾から流れた土砂が堆積した田園で、稲が立ち枯れるという被害が続出した。これに怒った農民らが数度に渡り蜂起した。佐野出身の衆議院議員であった田中正造はこのときの農民運動の中心人物として有名である。

なお、この鉱毒被害の範囲は渡良瀬川流域だけにとどまらず、江戸川を経由し行徳方面、利根川を経由し霞ヶ浦方面まで拡大した。田畑への被害は、特に1890年8月と1896年7月21日、8月17日、9月8日の3度の大洪水で顕著となった。

1892年の古在由直らによる調査結果によれば、鉱毒の主成分は銅の化合物、亜酸化鉄、硫酸。 1901年には、足尾町に隣接する松木村が煙害のために廃村となった。このほか、松木村に隣接する久蔵村、仁田元村もこれに前後して同様に廃村となった。

政府の対策として行われた工事が1897年から1927年にかけてされると、表だった鉱毒被害は減少した。しかし、渡良瀬川に流れる鉱毒がなくなったわけではなかった。他の地域と異なり、渡良瀬川から直接農業用水を取水していた群馬県山田郡毛里田村(現太田市毛里田)とその周辺では、大正期以降、逆に鉱毒被害が増加したと言われる。1971年には毛里田で収穫された米からカドミウムが検出され出荷が停止された。古河鉱業はカドミウム被害を認めていないが、群馬県がこれを断定した。

さらに、1899年の群馬栃木両県鉱毒事務所によると、鉱毒による死者・死産は推計で1064人。これは、鉱毒被害地の死者数から出生数を単純に減じたものである。松本隆海は、すべてを鉱毒が原因だとはいえないかもしれないが、当時の日本は出生数のほうが多いにもかかわらず、死者数のほうが多いのは、鉱毒に関連があるとしている。実際には、鉱毒が原因で貧困となり、栄養状態が悪化して死亡した者が多く含まれていると考えられるが、田中正造や松本はこれらも鉱毒による死者とすべきだとしている。この数値は、田中正造の国会質問でも使用された。

1973年までに足尾の銅は掘りつくされて閉山した。ただし、精錬所の操業は1980年代まで続き、鉱毒はその後も流されたとされる。1989年にJR足尾線で貨物が廃止になると、原料鉱石の搬入量が減少し、鉱毒は減少したとされる。 しかし、どの時代も科学的な分析がほとんどされていないため、公害の内容はあまり明らかになっていない。

足尾鉱毒事件自体は足尾鉱山の閉山によって終焉したかのように見えるが、精錬所が発した大量の亜硫酸ガスの影響によって枯れてしまった木々は未だに回復していない。 長く汚染に晒された為に土壌が酸性化しているのではないかといわれている。 現在ではその状況を憂慮し、荒廃した足尾地区の森林を復元するため、1897年、当時の農商務省により足尾に植林が命じられ、以後、現在に至るまで治山事業が続けられている。


参考文献

『田中正造』  清水書院

『辛酸-田中正造と足尾鉱毒事件』 中公文庫

http://e-kankyo.jfast.net/env/kougai/ashio.htm

http://kaede472.web.fc2.com/ruins02_017.htm


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