院政

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2009年1月28日 (水) 21:43の版
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 院政とは、天皇が位をゆずって上皇や法皇になってからも政治の実権を握り、院庁で行った政治のこと。1086年、白河上皇が行ったのが最初で、鳥羽・後白河・後鳥羽と続く。このころを院政期と呼ぶ。


院政の開始

 11世紀後半、朝廷ではようやく摂関家の勢力が衰え、1086(応徳3)年白河上皇による院政が始まった。白河天皇は、にわかに幼少の掘河天皇に譲位した後、自ら上皇として院庁を開き、天皇を後見しながら政治の実権を握る院政の道を開いた。上皇は荘園整理を歓迎する国司歴任者である受領層を支持勢力に取り込み、院の御所に北面の武士を置いて武士団を組織するなど、院の権力を強化し、やがて本格的な院政を始めた。これは、天皇と母方の関係にある摂関家から父方の皇室に政治の実権を回復しようとしたものであるが、すでに天皇中心の律令政治は変質しており、院庁中心という極めて変則的な形をとることとなった。天皇親政の考え方をもつ北畠親房は、「神皇正統記」の中で、摂関家の衰退とともに、天皇の地位まで空位に等しくなったとして院政を批判し嘆いている。こうした院と天皇の関係、朝臣の対立は、保元の乱の遠因ともなる。白河院政(1086~1129年)の後、鳥羽(1129~56年)・後白河(1158~92年)・後鳥羽(1192~1221年)と鎌倉初期まで上皇が「治天の君」として政治の実権を握り院政を展開する。この間、上皇は出家して法皇となり、篤く仏教を信仰したが、過度の信仰は寺院勢力の増大による僧兵の横暴をまねき、貴族や京の人々の不安を生みだした。


神皇正統記

 白河上皇が、天皇として国を治められたのは14年間であった。その後、世の政治を初めて院中で行われ、出家してからも亡くなるまで院政を続けられた。この時代は、院で政治が行われたので、摂関・関白はただその職にあるという名前だけのものとなってしまった。しかし、この時から、古い様子は一変したのである。摂関・関白が政治を動かしていた時でも宣旨・官符で天下の政治は行われていたが、この時代から院政・院庁下文が重視されたので、天皇もまた形だけ位についておられるにすぎなくなった。世も末という悲しむべき姿であろう。


参考文献

精選日本史史料集 第一学習社

日本史B 山川出版


  人間科学大事典

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