元寇(蒙古襲来)
出典: Jinkawiki
2009年1月29日 (木) 12:26の版 Bunkyo-student2008 (ノート | 投稿記録) ← 前の差分へ |
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日本は、文永の役を受けて、対外政策の強化にのりだした。特に、元軍がまた攻めてくるかもしれない危険性があったため、九州北部を強化した。日本遠征の失敗のあと、フビライは、高麗の再征中止の勧めにもかかわらず、南宋への最終的攻撃を進めるとともに、日本再征の準備を整えていった。1275年(建治1)4月、蒙古使者杜世忠(とせいちゅう)・何文著(かぶんちょ)が長門(ながと)室津(むろつ)に到着。使者一行は鎌倉へ送られ竜口(たつのくち)にて斬首(ざんしゅ)された。1279年(弘安2)6月にも、再度蒙古よりの使節一行が博多に到着したが、今回は鎌倉に上らすこともなく博多において斬(き)らせるなど、幕府は厳しい態度を示した。同年、蒙古は南宋を完全に滅ぼし中国全土の支配者となり、日本再征は日程の問題となった。一方、日本では、文永の役が終わると、幕府は同役の論功行賞を行い、蒙古の再襲に備えて防備体制(異国警固番役(いこくけいごばんやく))を強化した。博多湾沿岸の防備は、九州内各国がそれぞれ分担して順次番役を勤めるという制規が定められ、金沢実政(かねさわさねまさ)が防衛の指揮をとるため幕府より差し遣わされた。また長門の警備も強化され、これには長門、周防(すおう)、安芸(あき)(のち備後(びんご)も加わる)の勢をもって防衛すべき旨が定められた。また積極的に日本から元の遠征基地である高麗へ征戦する「異国征伐(せいばつ)」も企てられ、そのための船舶、水主(かこ)などの動員も行われたが、実現には至らなかった。1276年(建治2)3月よりは、博多湾沿岸の香椎(かしい)から今津に至る20キロメートルの地帯に石築地(いしついじ)(元寇防塁(ぼうるい))を築くことなども始められた。これは御家人だけでなく、所領の広さに応じて一般荘園公領にも賦課されたものである。 | 日本は、文永の役を受けて、対外政策の強化にのりだした。特に、元軍がまた攻めてくるかもしれない危険性があったため、九州北部を強化した。日本遠征の失敗のあと、フビライは、高麗の再征中止の勧めにもかかわらず、南宋への最終的攻撃を進めるとともに、日本再征の準備を整えていった。1275年(建治1)4月、蒙古使者杜世忠(とせいちゅう)・何文著(かぶんちょ)が長門(ながと)室津(むろつ)に到着。使者一行は鎌倉へ送られ竜口(たつのくち)にて斬首(ざんしゅ)された。1279年(弘安2)6月にも、再度蒙古よりの使節一行が博多に到着したが、今回は鎌倉に上らすこともなく博多において斬(き)らせるなど、幕府は厳しい態度を示した。同年、蒙古は南宋を完全に滅ぼし中国全土の支配者となり、日本再征は日程の問題となった。一方、日本では、文永の役が終わると、幕府は同役の論功行賞を行い、蒙古の再襲に備えて防備体制(異国警固番役(いこくけいごばんやく))を強化した。博多湾沿岸の防備は、九州内各国がそれぞれ分担して順次番役を勤めるという制規が定められ、金沢実政(かねさわさねまさ)が防衛の指揮をとるため幕府より差し遣わされた。また長門の警備も強化され、これには長門、周防(すおう)、安芸(あき)(のち備後(びんご)も加わる)の勢をもって防衛すべき旨が定められた。また積極的に日本から元の遠征基地である高麗へ征戦する「異国征伐(せいばつ)」も企てられ、そのための船舶、水主(かこ)などの動員も行われたが、実現には至らなかった。1276年(建治2)3月よりは、博多湾沿岸の香椎(かしい)から今津に至る20キロメートルの地帯に石築地(いしついじ)(元寇防塁(ぼうるい))を築くことなども始められた。これは御家人だけでなく、所領の広さに応じて一般荘園公領にも賦課されたものである。 | ||
- | ==文永の役== | + | ==弘安の役== |
元の第2回の日本遠征軍は、金方慶(きんほうけい)、忻都、洪茶丘の率いる蒙・漢・麗合同軍4万の東路軍と、范文虎(はんぶんこ)の率いる旧南宋軍10万の江南軍とからなっていた。1281年(弘安4)5月3日、東路軍は合浦を出発。対馬・壱岐を経て、一部は長門を侵攻。主力は6月6日、志賀島(しかのしま)(福岡市)に来襲し、同海上および陸上の一部で交戦。肥後の竹崎季長(すえなが)、伊予(いよ)の河野通有(こうのみちあり)らが小舟に乗り、元の大船に切り込みをかけ武名をあげたのもこのときである。このように東路軍が九州本土への上陸拠点とした志賀島も、日本軍の猛攻にあい上陸侵攻を阻まれ、壱岐から肥前の鷹島(たかしま)へと退いた。一方、江南軍は主将の更迭などで発船が遅れ、6月18日に慶元(寧波(ニンポー))を出発。平戸(ひらど)島付近で東路軍と合流し、一挙に博多湾に押し入るべく、7月27日鷹島に移動した。これを探知した日本軍は、大挙して鷹島の敵船に猛攻を開始した。ところが7月30日夜から暴風が吹き荒れ、翌閏(うるう)7月1日、蒙古軍はほぼ壊滅した。主将范文虎は士卒10余万を捨てて帰還し、残された士卒らは日本軍によりことごとく殺害、捕虜とされたという。元軍の帰らざる者は約10万、高麗軍の帰らざる者7000余人と高麗の記録は伝えている。 | 元の第2回の日本遠征軍は、金方慶(きんほうけい)、忻都、洪茶丘の率いる蒙・漢・麗合同軍4万の東路軍と、范文虎(はんぶんこ)の率いる旧南宋軍10万の江南軍とからなっていた。1281年(弘安4)5月3日、東路軍は合浦を出発。対馬・壱岐を経て、一部は長門を侵攻。主力は6月6日、志賀島(しかのしま)(福岡市)に来襲し、同海上および陸上の一部で交戦。肥後の竹崎季長(すえなが)、伊予(いよ)の河野通有(こうのみちあり)らが小舟に乗り、元の大船に切り込みをかけ武名をあげたのもこのときである。このように東路軍が九州本土への上陸拠点とした志賀島も、日本軍の猛攻にあい上陸侵攻を阻まれ、壱岐から肥前の鷹島(たかしま)へと退いた。一方、江南軍は主将の更迭などで発船が遅れ、6月18日に慶元(寧波(ニンポー))を出発。平戸(ひらど)島付近で東路軍と合流し、一挙に博多湾に押し入るべく、7月27日鷹島に移動した。これを探知した日本軍は、大挙して鷹島の敵船に猛攻を開始した。ところが7月30日夜から暴風が吹き荒れ、翌閏(うるう)7月1日、蒙古軍はほぼ壊滅した。主将范文虎は士卒10余万を捨てて帰還し、残された士卒らは日本軍によりことごとく殺害、捕虜とされたという。元軍の帰らざる者は約10万、高麗軍の帰らざる者7000余人と高麗の記録は伝えている。 | ||
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戦争に至るまで
13世紀中期、朝鮮半島の高麗(こうらい)を服属させた蒙古のフビライ・ハンは、日本に対しても朝貢させ国交を結ぼうとして、高麗を仲介とし日本に使者を派遣した。これは、蒙古が最大の目標とした南宋(なんそう)攻略の一環であったと考えられるが、そのほか、1227年(安貞1)と63年(弘長3)に、日本の武士の来寇禁止を求める高麗の使者が来日したことがあり、そのことなどもフビライの日本への使者派遣の理由の一つといわれている。1266年(文永3)、蒙古使者黒的(こくてき)・殷弘(いんこう)、高麗使者宋君斐(そうくんひ)・金賛(きんさん)らがともに巨済島(きょさいとう)まで至るが、風濤(ふうとう)の険阻を理由に引き揚げたのを第1回とし、1273年趙良弼(ちょうりょうひつ)の再度の来日に至るまで、前後6回にわたる使者が派遣された。1268年の第2回には、高麗使潘阜(はんぷ)一行が蒙古の国書をもたらしたが、日本はこれを侵略の先触れとして受け取り、異国降伏の祈祷(きとう)を寺社に命ずる一方、西国とくに九州の防備体制を固めるなど、国内はにわかに緊張に包まれた。
文永の役
1274年(文永11)10月3日、蒙古・高麗の兵約2万8000よりなる征日本軍は、忻都(きんと)、洪茶丘(こうちゃきゅう)らに率いられて合浦(がっぽ)(慶尚南道馬山(ばさん))を出発。10月5日、対馬(つしま)に上陸。このとき、対馬守護代(しゅごだい)の宗助国(そうすけくに)以下が防戦のすえ戦死した。10月14日、壱岐(いき)が襲われ、守護代平景隆(かげたか)以下が戦死。対馬・壱岐2島の百姓らは、男はあるいは殺されあるいは捕らえられ、女は1か所に集められ、数珠(じゅず)つなぎにして舷側(げんそく)に結び付けられるなどの残虐な行為を受けたという。10月20日、元軍は、博多(はかた)湾西部の今津(いまづ)―百道原(ももじばる)などに上陸し、麁原(そはら)、鳥飼(とりかい)、別府(べふ)、赤坂(いずれも福岡市内)と激戦が展開された。日本軍は少弐経資(しょうにつねすけ)、大友頼泰(おおともよりやす)の指揮のもとに、経資の弟景資(かげすけ)が前線の指揮をとり応戦したが、石火矢(いしびや)を使う蒙古の集団戦法に大いに苦戦した。最終的な勝敗が決せぬまま、同夜、蒙古軍は撤退を開始したが、さいわいにもいわゆる「神風」なる大暴風雨が吹き荒れ、蒙古の兵船は壊滅的打撃を受けた。未帰還者1万3500余人といわれている。
文永の役は、日本軍の実情を調べるために派遣した『威力偵察』だったという説が強い。このことは、元軍の兵士構成に非戦闘員がいたこと、『元史』「日本伝」で、自分たちから矢が尽きたために撤退したと言っていることからわかる。
対外政策の強化
日本は、文永の役を受けて、対外政策の強化にのりだした。特に、元軍がまた攻めてくるかもしれない危険性があったため、九州北部を強化した。日本遠征の失敗のあと、フビライは、高麗の再征中止の勧めにもかかわらず、南宋への最終的攻撃を進めるとともに、日本再征の準備を整えていった。1275年(建治1)4月、蒙古使者杜世忠(とせいちゅう)・何文著(かぶんちょ)が長門(ながと)室津(むろつ)に到着。使者一行は鎌倉へ送られ竜口(たつのくち)にて斬首(ざんしゅ)された。1279年(弘安2)6月にも、再度蒙古よりの使節一行が博多に到着したが、今回は鎌倉に上らすこともなく博多において斬(き)らせるなど、幕府は厳しい態度を示した。同年、蒙古は南宋を完全に滅ぼし中国全土の支配者となり、日本再征は日程の問題となった。一方、日本では、文永の役が終わると、幕府は同役の論功行賞を行い、蒙古の再襲に備えて防備体制(異国警固番役(いこくけいごばんやく))を強化した。博多湾沿岸の防備は、九州内各国がそれぞれ分担して順次番役を勤めるという制規が定められ、金沢実政(かねさわさねまさ)が防衛の指揮をとるため幕府より差し遣わされた。また長門の警備も強化され、これには長門、周防(すおう)、安芸(あき)(のち備後(びんご)も加わる)の勢をもって防衛すべき旨が定められた。また積極的に日本から元の遠征基地である高麗へ征戦する「異国征伐(せいばつ)」も企てられ、そのための船舶、水主(かこ)などの動員も行われたが、実現には至らなかった。1276年(建治2)3月よりは、博多湾沿岸の香椎(かしい)から今津に至る20キロメートルの地帯に石築地(いしついじ)(元寇防塁(ぼうるい))を築くことなども始められた。これは御家人だけでなく、所領の広さに応じて一般荘園公領にも賦課されたものである。
弘安の役
元の第2回の日本遠征軍は、金方慶(きんほうけい)、忻都、洪茶丘の率いる蒙・漢・麗合同軍4万の東路軍と、范文虎(はんぶんこ)の率いる旧南宋軍10万の江南軍とからなっていた。1281年(弘安4)5月3日、東路軍は合浦を出発。対馬・壱岐を経て、一部は長門を侵攻。主力は6月6日、志賀島(しかのしま)(福岡市)に来襲し、同海上および陸上の一部で交戦。肥後の竹崎季長(すえなが)、伊予(いよ)の河野通有(こうのみちあり)らが小舟に乗り、元の大船に切り込みをかけ武名をあげたのもこのときである。このように東路軍が九州本土への上陸拠点とした志賀島も、日本軍の猛攻にあい上陸侵攻を阻まれ、壱岐から肥前の鷹島(たかしま)へと退いた。一方、江南軍は主将の更迭などで発船が遅れ、6月18日に慶元(寧波(ニンポー))を出発。平戸(ひらど)島付近で東路軍と合流し、一挙に博多湾に押し入るべく、7月27日鷹島に移動した。これを探知した日本軍は、大挙して鷹島の敵船に猛攻を開始した。ところが7月30日夜から暴風が吹き荒れ、翌閏(うるう)7月1日、蒙古軍はほぼ壊滅した。主将范文虎は士卒10余万を捨てて帰還し、残された士卒らは日本軍によりことごとく殺害、捕虜とされたという。元軍の帰らざる者は約10万、高麗軍の帰らざる者7000余人と高麗の記録は伝えている。
戦後の状況
フビライは以後も日本遠征を断念せず準備を進めた。中国南方やベトナムの反乱があったにもかかわらず、出兵計画を具体化していったが、1294年(永仁2)彼の死とともにその計画は立ち消えとなり、フビライの後を継いだ成宗が、1299年(正安1)禅僧一山一寧(いっさんいちねい)を日本へ派遣して交渉を試みたのを最後に、元は日本との交渉を完全に断念した。一方日本では、異国警固番役は依然継続され、漸次弛緩(しかん)してはいったものの、防備体制は幕府倒壊までともかくも維持された。九州の御家人たちは、蒙古襲来以前は、訴訟のとき鎌倉や京都六波羅に参訴していたが、訴訟のため所領を離れて番役をおろそかにすることを案じた幕府は、九州独自の裁判機関を設けた。1284年(弘安7)の特殊合議制訴訟機関、86年鎮西談議所(ちんぜいだんぎしょ)を経て、いわゆる鎮西探題が成立した。また蒙古襲来を機に、九州各国守護職の北条氏一門への集中化が図られ、その九州支配は強化された。また異国警固番役の勤仕を通じて、庶子が惣領の統制を離れて別個に番役を勤仕する傾向が強くなり、庶子の独立化が進んだ。これは、幕府の存立基盤である惣領制の解体を促進する一因となった。戦後の恩賞配分も十分でなく参戦者の要求を満たすことができず、加えて、継続的な防衛のための経済的諸負担は御家人の窮乏に拍車をかける結果となった。九州の御家人たちを異国警固に専心させる目的で設置された鎮西探題は、北条氏の専制的九州支配の機関としての性質をあらわにして、九州御家人たちの支持を失い、鎌倉北条氏と運命をともにして、1333年(元弘3・正慶2)5月、滅亡した。鎌倉幕府体制の有していた諸矛盾は、蒙古襲来を契機として顕在化し、悪党とよばれる人々の出現に象徴される御家人体制の動揺のなかで、ついには幕府の倒壊をみるに至ったのである。なお、蒙古襲来を契機に大社寺は一斉に戦勝祈願に専念し、幕府が戦後これに対する報賽(ほうさい)の意味で寺社保護政策を推し進めたことと、いわゆる「神風」が直接的に戦勝に導いたことなどから、以後神国思想が広範に流布していった。
参考文献
1、日本史小辞典 山川出版社
2、詳説日本史 山川出版社
3、日本史の全貌 青春出版
4、ウィキペディア百科事典 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8