島左近
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島左近(1540?~1600?)は安土・桃山時代の武将で石田三成の家臣であった。島左近とは通称で本名は島清興である。
生涯
・大和国の国人の家系に生まれる。島氏は今の奈良県生駒郡平群町周辺の在地領主であったと考えられている。当初は畠山氏に仕えた。畠山高政が三好長慶と戦った教興寺の戦いに参加。、畠山高政は敗北し、その際、筒井順政の指揮下で戦ったことが縁で畠山氏の没落後、筒井氏に従属する領主の一人となった。そして次第に頭角を現し、順政の後を継いだ筒井順慶のころには侍大将になり、当時大和国で覇権をを争っていた松永久秀との戦いを続けていた。左近という名はこのときの松倉重信(右近)と並んで筒井氏の両翼になっていたからである。順慶が亡くなり次当主に定次と意見が合わず筒井氏を去る。その後は豊臣家に仕えたあと浪人となって近江に隠棲する。
・そして、近江の領主となった石田三成から仕官の要請がありこれを受諾した。その時のエピソードとして左近は浪人中、幾多の要請を受けていたがすべて断ってきた。三成が要請してきたときもやはり断ったが、三成の必死の説得により左近は仕官となった。この時に左近に対して2万石の俸禄でし抱えられたが、これは、当時の三成の禄高4万石のうちの半分を与えられるという破格の待遇であった。島左近が仕官になった話は広まり、「三成に過ぎたるものが二つあり。島の左近と佐和山の城」といったうたが読まれるほど、いかに島左近の器の大きさと三成が左近を必要としていたかがわかる。
・後に朝鮮の役では三成に従軍し、朝鮮へ渡たり軍務の補佐をした。1598年に豊臣秀吉が没して、徳川家康が権力を振りかざすようになると、それを危険に感じた左近は三成に家康暗殺計画を持ちかけるが、大義名分にこだわる三成はそれを受け入れなかった。
・1600年にいよいよ家康との直接対決が近づいてきた前日に島左近指導のもとに前哨戦である杭瀬川の戦いで完勝した。しかし、この夜に夜襲を仕掛ける予定だったが三成はこの提案を受け入れなった。翌日に関ヶ原の戦いが勃発。島左近も自ら陣頭になって奮戦するが黒田長政の鉄砲隊に銃撃され一時後退する。そして昼ごろ小早川秀秋の裏切りによって西軍は総崩れとなる。左近は討ち死にを覚悟して最後の突撃をかけ、奮戦した末に討ち死にをした。
関ヶ原の戦いでの逸話
・後年、島左近と直接戦った黒田家の家臣たちが昔話をし、島左近の話題になったときその日の左近の服装を誰も覚えてない。そこで旧石田氏の家来を呼び当日の服装を聞いてみると「兜の立物は三尺余りの天衝を付け、具足は桶革胴の漆塗りで、浅黄木綿の陣羽織を着ていた」と言った。このような派手な格好であったにも関わらず、誰もこのときのことを覚えていなかった。「恥ずかしい事じゃが、あの時の島左近の大きな声は耳に残っているが、軍装は全く覚えていない。見るどころか、顔を上げるのも怖かった。しかし笑わんでくれ、それほどまでに左近は恐ろしい男じゃった」と恥じ入ったという。