横浜開港150年

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2009(平成21)年に横浜は、1859(安政6)年に横浜が開港してから150周年の年を迎える。 2009(平成21)年に横浜は、1859(安政6)年に横浜が開港してから150周年の年を迎える。
開港以前の現横浜市域における最大の人口密集地は、東海道の宿場町で、人口5,000人ほどの神奈川宿であった。 開港以前の現横浜市域における最大の人口密集地は、東海道の宿場町で、人口5,000人ほどの神奈川宿であった。
-この神奈川宿の東南約4キロに、後に「横浜市歌」(森鴎外作詞)で「むかし思えば とま屋の煙 ちらりほらりと立てりしところ」とうたわれる、戸数100ほどの半農半漁の寒村、横浜村があった。+この神奈川宿の東南約4キロに、後に「横浜市歌」(森鴎外作詞)で「むかし思えば とま屋の煙 ちらりほらりと立てりしところ」とうたわれる、戸数100ほどの半農半漁の寒村、横浜村があったのである。
この横浜村で、1854(安政元)年日米和親条約が締結され、その4年後の日米修好通商条約の締結によって神奈川に開港場が置かれ、1859(安政6)年7月1日、横浜は開港したのである。 この横浜村で、1854(安政元)年日米和親条約が締結され、その4年後の日米修好通商条約の締結によって神奈川に開港場が置かれ、1859(安政6)年7月1日、横浜は開港したのである。
新しく生まれた横浜は、開国日本・新生日本の象徴となり、その魅力にひかれ、内外から多くの人々が集まり、質の高い文化交流が生まれた。 新しく生まれた横浜は、開国日本・新生日本の象徴となり、その魅力にひかれ、内外から多くの人々が集まり、質の高い文化交流が生まれた。
-来浜外国人は、新生日本(「ヤングジャパン」と呼ばれた。)の魅力と熱気にひかれた文化人や貿易商・技術者が多かったのが特色です。彼らは、日本人が世界最先端の技術や思想を展開したいと思うなら、それに進んで協力したいと考える、ボランティア精神のあふれる人々であった。+来浜外国人は、新生日本(「ヤングジャパン」と呼ばれた。)の魅力と熱気にひかれた文化人や貿易商・技術者が多かったのが特色である。
 +彼らは、日本人が世界最先端の技術や思想を展開したいと思うなら、それに進んで協力したいと考える、ボランティア精神のあふれる人々であった。
彼らの多くが、交渉条約を導いた幕府と好奇心あふれる庶民の熱意を感じ取り、横浜にヒト・モノ・カネ、そして情報をもたらしした。 彼らの多くが、交渉条約を導いた幕府と好奇心あふれる庶民の熱意を感じ取り、横浜にヒト・モノ・カネ、そして情報をもたらしした。
日本全国各地から集まった人々は、内外の先進的な産業や文化を積極的に吸収しようとする「進取の気性」に富み、因習にとらわれず、それぞれの出身地の文化を横浜において融合させようとする「開放性」を作り上げていきました。その良循環が、横浜市民気質となっていったのである。 日本全国各地から集まった人々は、内外の先進的な産業や文化を積極的に吸収しようとする「進取の気性」に富み、因習にとらわれず、それぞれの出身地の文化を横浜において融合させようとする「開放性」を作り上げていきました。その良循環が、横浜市民気質となっていったのである。
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そして、1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲までの度重なる空襲によって、被災人口約40万人、少なくとも約1万人が死亡し、横浜の中心部は焼け野原になったのである。 そして、1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲までの度重なる空襲によって、被災人口約40万人、少なくとも約1万人が死亡し、横浜の中心部は焼け野原になったのである。
戦争終結とともに、横浜の約27%、港湾施設は約90%が連合軍に接収され、横浜の復興は他都市に比べ大幅に遅れた。 戦争終結とともに、横浜の約27%、港湾施設は約90%が連合軍に接収され、横浜の復興は他都市に比べ大幅に遅れた。
-しかし、焦土と化した横浜から市民は立ち上がり、1949(昭和24)年には、野毛や反町で日本貿易博覧会が開催され、横浜市民を元気づけました。一方、横浜港では海外から多くの客船が訪れたり、ハワイや南米などに新天地を求めた移民船が大さん橋から出航したり、人の交流も盛んになった。+しかし、焦土と化した横浜から市民は立ち上がり、1949(昭和24)年には、野毛や反町で日本貿易博覧会が開催され、横浜市民を元気づけた。
 +一方、横浜港では海外から多くの客船が訪れたり、ハワイや南米などに新天地を求めた移民船が大さん橋から出航したり、人の交流も盛んになった。
また、横浜で生まれた美空ひばりが、日本の戦後の歌謡界へ新たなる旋風を巻き起こしたり、ジャズやリズム&ブルース等がアメリカから横浜にいち早く入り、横浜発の文化として日本中へ広がっていった。 また、横浜で生まれた美空ひばりが、日本の戦後の歌謡界へ新たなる旋風を巻き起こしたり、ジャズやリズム&ブルース等がアメリカから横浜にいち早く入り、横浜発の文化として日本中へ広がっていった。
1958(昭和33)年、横浜は開港100年目の年を迎え、開港百年祭が開催されました。これを記念してマリンタワーや横浜文化体育館などが建設され、氷川丸が山下公園に係留された。 1958(昭和33)年、横浜は開港100年目の年を迎え、開港百年祭が開催されました。これを記念してマリンタワーや横浜文化体育館などが建設され、氷川丸が山下公園に係留された。

2009年1月29日 (木) 13:22の版

2009(平成21)年に横浜は、1859(安政6)年に横浜が開港してから150周年の年を迎える。 開港以前の現横浜市域における最大の人口密集地は、東海道の宿場町で、人口5,000人ほどの神奈川宿であった。 この神奈川宿の東南約4キロに、後に「横浜市歌」(森鴎外作詞)で「むかし思えば とま屋の煙 ちらりほらりと立てりしところ」とうたわれる、戸数100ほどの半農半漁の寒村、横浜村があったのである。 この横浜村で、1854(安政元)年日米和親条約が締結され、その4年後の日米修好通商条約の締結によって神奈川に開港場が置かれ、1859(安政6)年7月1日、横浜は開港したのである。 新しく生まれた横浜は、開国日本・新生日本の象徴となり、その魅力にひかれ、内外から多くの人々が集まり、質の高い文化交流が生まれた。 来浜外国人は、新生日本(「ヤングジャパン」と呼ばれた。)の魅力と熱気にひかれた文化人や貿易商・技術者が多かったのが特色である。 彼らは、日本人が世界最先端の技術や思想を展開したいと思うなら、それに進んで協力したいと考える、ボランティア精神のあふれる人々であった。 彼らの多くが、交渉条約を導いた幕府と好奇心あふれる庶民の熱意を感じ取り、横浜にヒト・モノ・カネ、そして情報をもたらしした。 日本全国各地から集まった人々は、内外の先進的な産業や文化を積極的に吸収しようとする「進取の気性」に富み、因習にとらわれず、それぞれの出身地の文化を横浜において融合させようとする「開放性」を作り上げていきました。その良循環が、横浜市民気質となっていったのである。 1889(明治22)年、横浜(人口12万人)は市制を施行し、さらに1909(明治42)年には開港50周年を迎えた。 その年には、現在でも多くの市民に親しまれている市章や森鴎外作詞の横浜市歌が発表され、市民の寄付によって開港記念横浜会館(現、横浜市開港記念会館)が建設された。(完成年度は1917(大正6)年) 明治の末期から大正にかけては、市民生活の面においても、伊勢佐木町の芝居観劇やテニス・野球などのスポーツが盛んに行われ、国際都市らしい市民文化を花咲かせた。また、1910(明治43)年の横浜経済協会の設立により、工業誘致が本格的に始められるなど、多くの地元経済人が横浜を発展させたのもこの時代である。


震災・戦争・復興そして日本第2の都市へ

1923(大正12)年9月1日、関東平野南部を震度6の大地震が襲い、横浜は建物の倒壊や火災で壊滅的な被害を受け、横浜経済は崩壊し、多くの外国商館も東京・大阪などへ移転した。 しかし、その後市民の努力により復興を遂げ、1930(昭和5)年には市内のがれきの埋め立てでできた山下公園が開園、1935(昭和10)年には、くじらを山下公園前の海に泳がせるなどのイベントを中心とした復興記念横浜大博覧会を開催した。 また、横浜港からの輸出品目としては、生糸貿易が中心であったのが、1942(昭和17)年ごろから機械類、金属製品及び鉄鋼などが貿易の主流となって、現在に引き継がれている。 この間、横浜は市域を拡大し続けた。 1939(昭和14)年の大規模な合併によって、現在とほぼ同じ市域になり、1942(昭和17)年には人口100万人を突破した。 また、時代は金融恐慌、失業者の増大、軍需の拡大と続き、第2次世界大戦へと突入した。 そして、1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲までの度重なる空襲によって、被災人口約40万人、少なくとも約1万人が死亡し、横浜の中心部は焼け野原になったのである。 戦争終結とともに、横浜の約27%、港湾施設は約90%が連合軍に接収され、横浜の復興は他都市に比べ大幅に遅れた。 しかし、焦土と化した横浜から市民は立ち上がり、1949(昭和24)年には、野毛や反町で日本貿易博覧会が開催され、横浜市民を元気づけた。 一方、横浜港では海外から多くの客船が訪れたり、ハワイや南米などに新天地を求めた移民船が大さん橋から出航したり、人の交流も盛んになった。 また、横浜で生まれた美空ひばりが、日本の戦後の歌謡界へ新たなる旋風を巻き起こしたり、ジャズやリズム&ブルース等がアメリカから横浜にいち早く入り、横浜発の文化として日本中へ広がっていった。 1958(昭和33)年、横浜は開港100年目の年を迎え、開港百年祭が開催されました。これを記念してマリンタワーや横浜文化体育館などが建設され、氷川丸が山下公園に係留された。 日本の高度成長期への突入とともに、横浜の沖への埋め立てが加速化した。 そして昭和40年代の横浜港のコンテナ時代の到来によって、大型港湾化が推進された。 また、1968(昭和43)年には人口200万人に達し、人口の急増に併せて市郊外での団地や宅地造成が行われ、ベットタウンそしてニュータウンとしての新たなる横浜の都市像を形成しました。そして、1978(昭和53)年には、人口は272万人に達し、全国第2位の規模をもつ大都市へと成長したのである。



平成から現在、356万都市横浜へ

1989(平成元)年には、市政100周年・開港130周年記念として横浜博覧会が開催され、約1,333万人を動員した。 また、同じく記念事業として、横浜美術館、横浜アリーナ、横浜ベイブリッジなどが建設さた。 21世紀を迎えて、2002(平成14)年6月、ワールドカップ決勝戦が横浜で開催され、その試合の様子が全世界に発信された。 また、同年10月に人口は350万人を超え、現在も人口は増え続けている。 その後も、2004(平成16)年には待望のみなとみらい線が開業するなど、2009年に向け横浜は発展し続けている。 そして2009年には開港150周年を記念した、横浜開港祭が大々的に行われるのである。


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