大江広元

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広元は執権政治の安定期を迎えた嘉禄元年(1225)、鎌倉で没した。 広元は執権政治の安定期を迎えた嘉禄元年(1225)、鎌倉で没した。
78歳であった。 78歳であった。
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 +参考:http://www.kamakura-burabura.com/jinbutua.htm#ooehiromoto
 +「鎌倉辞典」:東京堂

2009年1月30日 (金) 12:53の版

11世紀後半の大学者大江匡房の曾孫にあたる。 明法博士中原広季の養子となるが、のち大江姓に復した。 朝廷に出仕して少外記まで進んだが、源頼朝の招きに応じて元暦元年(1184)ごろ鎌倉に下ったといわれている。

頼朝の信任厚く同年10月、公文所(のちの政所)の開設に伴いその別当となり、多くの政策に関与してその非凡な政治的手腕を発揮、幕府の基礎固めに尽力した。 なかでも元暦2年の源義経追討を機に諸国に守護・地頭の設置を献策したことは特筆される。 またその出身のためか公武間の折衝にも目覚しい活動を示し、三善康信・二階堂行政と並んで鎌倉幕府の事務官僚の中心的存在であった。

頼朝の死後は北条氏との協力関係を強め、以後北条氏によって展開される粛清劇でも専ら北条氏と協同歩調をとっている。

建保5年に出家して覚阿と号しましたが、その後も幕府の長老として幕政に重きをなし、将軍を補佐した。 特に承久の変に際しては、京都進軍を主張し、この積極策によって上皇方を一掃、武家政権の基盤を確固たるものとしたのである。

広元は執権政治の安定期を迎えた嘉禄元年(1225)、鎌倉で没した。 78歳であった。

参考:http://www.kamakura-burabura.com/jinbutua.htm#ooehiromoto 「鎌倉辞典」:東京堂


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