西郷隆盛
出典: Jinkawiki
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薩摩藩の下級武士の家に生まれたが、藩主い島津斉彬に見出された頭角をあらわした。幕末の動乱の時代に、西郷は木戸孝允の長州(山口県)と結んで薩長同盟をつくり、これが江戸幕府を倒す原動力となった。1867年の大政奉還で政治の実権は朝廷に移った。翌年、朝廷の力をかりた薩摩・長州・土佐(高知県)など22藩の軍勢が、錦の御旗をかざして江戸に入り、江戸城攻撃を始めようとした。このとき、幕府側の代表として、勝海舟が新政府軍の参謀、西郷の前に手をつき、江戸城攻撃をやめて徳川慶喜に対する寛大な扱いを願った。この申し出を一度断った西郷は、新政府の大きな力を持つイギリス公使に相談する。公使が江戸城攻撃に反対したため勝の申し出を受け入れることにする。こうして江戸城は無血で開場されることになる。1873年、20歳以上の男子に対して兵役を課す徴兵令がだされ、一般国民が軍務につくようになって、武士の失業者が40万人にものぼり、武士の不満が高まった。西郷は板垣退助らとともにこの武士の不満を解消するためもあって、当時鎖国していた韓国を武士で征服しようとする征韓論を唱える。しかし、これは岩倉具視や大久保利通の反対で取り入れられず、西郷は辞職する。
征韓論に敗れ、故郷鹿児島に帰った西郷を待っていたのは、新政府に大きな不満を持つ士族たちであった。このころの鹿児島は、独立国のように中央政府の言うことは何一つ聞かない状況であった。この不満士族たちは、西郷をおしたて、1877年(明治10年)、ついに政府に対する戦いを起こした。これが西南戦争である。しかし、最新装備の政府軍には勝てず、流れ弾を受けて力尽きた西郷は、城山で切腹する。
参考文献
『小学歴史人物』 赤尾文夫 旺文社
『歴史の精解と資料』 藤井譲治 文英堂