池田勇人

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池田 勇人

1899年12月3日 - 1965年8月13日

日本の大蔵官僚、政治家。第58代から第60代まで内閣総理大臣を務めた。正二位大勲位。19世紀生まれの最後の首相である。

大蔵事務次官を経て、1949年代議士に当選する。野田卯一、福田赳夫と共に、「大蔵省の3田」と呼ばれる。なお、大蔵省では、京大出身者初の局長(主税局長)経験者であり、2006年7月に藤井秀人が主計局長より昇格するまでは、唯一の大蔵事務次官経験者であった。吉田内閣の蔵相となり、アメリカから派遣されたドッジ公使のもとでインフレを克服した。1956年自民党の結成後、石橋総裁・内閣を実現させ蔵相となる。岸首相の警職法案に怒り大臣を辞職したが、新安保条約を支持して通産省に復帰する。岸辞任後の1960年7月、自民党総理に指名されて内閣を組織する。


佐藤栄作と並び吉田学校の双璧であり、吉田茂の最側近として、連合国との講和、冷戦下における日米関係の構築にかかわると同時に、戦後日本経済の再編成においても指導的な役割を担い、首相就任後は「国民所得倍増計画」を打ち出して、日本の高度経済成長の進展にもっとも大きな役割を果たした政治家の一人である。


*国民所得倍増計画…1957年に岸内閣のもとで策定された「新長期経済計画」に代わり、1960年12月27日に池田内閣において閣議決定された。岸内閣の安保政策重視から一転、経済政策を前面に押し出す格好となった。


日米安全保障条約の締結により日本は国土の防衛をアメリカに一任できるようになり、高コストの軍事費(防衛費)を抑え経済政策に優先的に配分できるようになった。国民所得倍増計画の目的は輸出増進による外貨獲得を主要な手段として国民所得(国民総生産)を倍増させ、これによって雇用を拡大し失業問題を解決する(完全雇用を目指す)ことで生活水準を引上げることにある。またこの過程で地域間・産業間における所得格差の是正もその目的とされている。具体的には農業近代化、中小企業の近代化、経済的な後進地域の開発(工業の分散)である。

ただ、これらは特に目新しい政策というわけではない。岸内閣の「新長期経済計画」において既に国民総生産と経済成長率という概念を用いており、さらに完全雇用についても言及されている。とはいえ、国民所得倍増計画が経済政策として劇的な成果を上げたことは事実である。

計画の数値目標は1960年度の国民総生産額である13兆6000億円の2倍、26兆円を10年以内に達成するというものである。なお、1960年度から年間平均11%の経済成長率を維持し、以後3年で17兆6000億円に到達させることが中期目標とされた。

しかし日本経済は予想以上の成長を遂げた。実質国民総生産は約6年で、国民1人当りの実質国民所得は7年(1967年)で倍増を達成した。経済成長率も驚異的な記録を見せ、計画開始1年目(1961年度)にして早くも目標が達成された。これによって政府は計画の見直しを迫られ、早くも高度成長の「その後」の手当を図ることとなった。

その後、佐藤内閣によって高度成長によるひずみの是正や社会資本整備を目的とする「中期経済計画」(1965年策定)および「経済社会発展計画」(1967年策定)が策定されてゆく。


参考文献 佐々木隆璽著 『占領・復興期の日米関係』 山中出版社 2008年発行 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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